あの「佃十成」の知行地だったとは!
河野氏が滅び、藩主が次々と変わった。久万山の一部が一時、大洲領に組み込まれた時代もあってが、加藤嘉明が慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功によって、一躍21万石となり、松山城を築いて慶長8年に入城した。加藤の松山在城は20余年におよび、その間久万山は重臣佃十成の知行所となった、という。
「佃十成」……聞き憶えのある名前であった。正岡重氏が風早牢人らを率いて最後の反抗を試みたとき、狡猾な策を用いて、鎮圧に当たったあの部将ではないか。つまり正岡氏に最後のとどめを刺した因縁の男が「久万山」と関わってきた。
十成は久万山で圧政を行ったらしい。寛永3年(1626)、久万山庄屋らは大川村の土居三郎右衛門、日野浦村の船草次郎右衛門を代表として直接に加藤嘉明に支配者の更迭を願い出ている。その理由として年貢の過重取り立てと、百姓を連日松山の屋敷に呼んで使役したことを挙げている。佃氏の久万山支配は翌寛永4年で終わった。そして伊勢国桑名から松平定行が15万石で松山城主として入国する。俗に「藩政時代」と呼び、「久万山六千石」も、このころからの呼称である。
諸城主は在地に帰農していく。久万山の庄屋家には戦国時代の土豪から出たものが多く、久万・小田郷では大除城主大野家の一族または配下の子孫と称する者が多く、絶家を防ぐため庄屋同士で養子縁組をして親戚関係を作っていった。
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| 大除城は槻ノ沢という集落を懐に抱いている |

大除城を築いた由来とその結末を伝えている |

政岡右京が城主の荏原・東町城址 |