幻のルーツ 風早へ 九萬山へ


第2部 17
久万に入ると目に付くのが 山肌を削り取られた大除城址 街道を見張るように越木ヶ甫氣、船山の諸城が設けられた
正岡氏と久萬山を結ぶ線がある!
「久万山」が悩ましい、と前に書いた。「久万山」がとても気になる理由の一つに、得居衛氏が「正岡氏考」のなかで、こう考証しているからである。
……金蓮寺本河野系図には「康孝は正岡・石崎・久万などの元祖」とし、また越智系図には「経孝、正岡氏の祖」と載せている。
久万・大除城主大野氏の直属旗下に「正岡氏」あり
久万氏という氏族が久万山にいるのかと調べてみたが、それはない。久万に正岡氏の流れがある、と考えた方が素直だろう。戦国時代に入って、久万山や小田郷が河野氏の支配下にあって、土佐国に対する備えとして重要性を担っていた。河野氏は東明神(現久万町)に大除城を築いて大野氏を配し、郡内から大洲方面にかけて40余の枝城を置いて守らせていた。その辺のことを簡明に『城郭全集』が纏めていた。

……天正年間(1531〜54)土佐の一条氏は再三兵を出して久万山を侵略した。久万の城主達はいずれも小身でこれを撃退できず、何度も湯月屋形へ援兵を依頼した。河野氏は新たに城を築き、大除城と号した。城主には大野安芸守直家を起用、安芸守は河野一門三十二将の一人で、これより船草、山内、正岡等の久万の城主は、すべて直家の旗下として付属することとなった、と。

 大野氏の旗下の一覧表ともいえる『大野家四拾八家之次第』に、「荏原・東町城城主・政岡右京」という名が連ねているが、この武将が「正岡氏」に繋がるのか、まだわからない。『美川村二十年誌』(昭和50年刊)でも、久万郷の城主は、船草、明神、山之内、政岡、森、立林、菅家、梅木、山下ら18家の名を挙げている。もっとも当時の城というものは大除城にしても近世の城郭建築のようなものではない。武士といっても平時には城地の近くの平地に居宅を構え、農耕のかたわら軍事の訓練をし、戦争となると住居を引き払って兵粮・武器を運び上げて城地に立て籠もる手筈であったという。したがって城というよりも、「かきあげ」または「とりで」と呼ぶにふさわしい手軽く築き上げた城塁で、あり合わせの材木で周囲に棚を立て巡らし、見張りと防禦に当たる程度であった。

あの「佃十成」の知行地だったとは!

 河野氏が滅び、藩主が次々と変わった。久万山の一部が一時、大洲領に組み込まれた時代もあってが、加藤嘉明が慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功によって、一躍21万石となり、松山城を築いて慶長8年に入城した。加藤の松山在城は20余年におよび、その間久万山は重臣佃十成の知行所となった、という。

「佃十成」……聞き憶えのある名前であった。正岡重氏が風早牢人らを率いて最後の反抗を試みたとき、狡猾な策を用いて、鎮圧に当たったあの部将ではないか。つまり正岡氏に最後のとどめを刺した因縁の男が「久万山」と関わってきた。

 十成は久万山で圧政を行ったらしい。寛永3年(1626)、久万山庄屋らは大川村の土居三郎右衛門、日野浦村の船草次郎右衛門を代表として直接に加藤嘉明に支配者の更迭を願い出ている。その理由として年貢の過重取り立てと、百姓を連日松山の屋敷に呼んで使役したことを挙げている。佃氏の久万山支配は翌寛永4年で終わった。そして伊勢国桑名から松平定行が15万石で松山城主として入国する。俗に「藩政時代」と呼び、「久万山六千石」も、このころからの呼称である。

 諸城主は在地に帰農していく。久万山の庄屋家には戦国時代の土豪から出たものが多く、久万・小田郷では大除城主大野家の一族または配下の子孫と称する者が多く、絶家を防ぐため庄屋同士で養子縁組をして親戚関係を作っていった。
大除城は槻ノ沢という集落を懐に抱いている

大除城を築いた由来とその結末を伝えている

政岡右京が城主の荏原・東町城址
江戸末期と明治5年の村名と庄屋の名前

 県立図書館所蔵の「久万山手鑑」によって8代将軍吉宗の晩年の寛保の頃の各村庄屋名と「松山領里正鑑」によって明治5年6月、庄屋所廃止の時の村名・当主名が挙げられているので、若干、列記する。

       (寛保の頃)    (明治五年)
  東明神村  新右衛門      船田信衛
  西明神村  源兵衛       梅木源平
  入野村   孫右衛門      山之内誠一郎
  久万町村  次郎左衛門     鶴原五郎太
  菅生村   善左衛門      小倉高太郎
  有枝村   弥次右衛門     山内寅吉
  大川村   五郎右衛門     土居通昌
  久主村   与次兵衛      梅木盛久      
  柳井川村  尾形清右衛門   土居五郎次(ほかは略)
 これで見ると明治初年の久万山24村の名は八代将軍吉宗(松山藩主六代定喬)の頃にはすでに出来ているし、寛保の頃は苗字を許された庄屋は尾形・小倉・土居に過ぎないが、他の庄屋は名乗りこそしないが、苗字は先祖代々持っており、それはだいたい明治五年の苗字であったと思われる。もっとも村によって庄屋の家柄の替わったものもあったようである、と。(美川村二十年誌より)
 ここに久万郷十八家の一人・正岡氏の名が一つとして露われてこない。おかしい。なんらかの理由があるはずだ。

風早と「クマヤマ」との密接な交流史料を発見
 もう一つ、久万山が悩ましいと直感したのは、「クマヤマ」はどこにあるのか、父のいう周桑郡では、どうやっても炙り出せないでいるとき、次の一行に触れて、ピンと来た。『風早』第8号の「一番日記呼出(3)」に「余り地入百姓」の関する記述があって、天明7未年10月26日/一、久万山、面河(おもごう)山之者、風早郡江 入百姓に 来仕成之事、とあった。暮らしに困った久万山、面河の山の者が、風早の縁者を頼り、余り地に入植を願い出たという意味である。

「一番日記呼出」は、風早郡代官所の記録で、幕府・藩からの通達、郡役人・村役人の任免、諸願、天災地変などと一緒に、明和8年(1771)から文政2年(1819)に至る48年間の百姓の移動を伝えている。江戸時代の農民は生まれてから死ぬまで同じ土地に縛りつけられているとした先入観を否定するに足る史料だと注目されている。その記録から、江戸時代の風早では「クマヤマ」といえば「久万山」を指し、入百姓などの交流があってかなり近しい縁がありそう、と見た。明治に入っても、その辺の事情に変わりはないはずである。まして、父はほとんど風早で暮らした訳でもなく、身内に聞かされた一家の歴史であったろうから、片言雙句の記憶の繋ぎ合わせたものと理解すべきだろう。もっと言えば、周桑郡も温泉郡も、まして上浮穴郡などという行政区割の正確な知識を期待するのも酷な話ではあった、と今にして気付く。
そうやって、久万山を中心とした浮穴地方の知識を積み重ねていくのは、楽しい作業であった。お陰で「弘形村」とか「仕七川村」といった地名を見ても、ああ、これは明治22年の町村制施行時に合併する江戸時代からの村名を一つ一つ組み合わせたものだと分かってきた。すると、図書目録を渉猟していて、ピンと触覚に引っかかってくれるのだ。

 昭和39年9月発行の「仕七川村誌」を、見逃さずに掬い上げられたのも、成果の一つだろう。因みに「仕七川」とは、高知から土佐街道で伊予に入ってすぐの村、東川・仕出・七鳥から生まれた、なんとも味気ない村名であるが、村誌の方は味わいのある内容が盛り沢山で、嬉しくなる。明治18年(1885)、七鳥村外二ヵ村戸長に正岡元市が選ばれた、とある。やっと、それらしい匂いがする。「周平さん」を捕まえるのも、そんなに時間が掛からないかもしれぬ。

 付け加えれば、「弘形村」とは日野浦の「ひ」黒岩の「ろ」大川の「か」有枝の「た」を繋ぎ合わせたものだが、判じ物めいて、地名のあり方としては、本来の土地の匂いが消されてしまう。もっとも、それぞれの村にすれば、どこかに己れの村の旧名を残しておきたいだろうから、これもやむを得ないか。

 そして、現在では「仕七川村」と「弘形村」が一つとなって「美川村」を構成している。その『美川村二十年誌』の巻頭グラビアを、引き締まった美丈夫の顔写真が飾っている。美川村初代・二代収入役の正岡悦次郎である。面差しが、気のせいか、なにやら共通する。ページをめくると、次から次と、「正岡さん」が出てくる。拾ってみた。

    書記 正岡義数    仝 正岡秀行

    美川西小PTA会長    正岡 清

    村会議員          正岡宗孝(明治35〜42)

    仝               正岡和代蔵(昭和9〜13)

    仝               正岡富佐(24〜26)

 と、「正岡姓」のオンパレードで、われらがルーツの地・幸門城のある玉川村のケースより、むしろ活気がある。そろそろ「周平さん」にお出まし願えるのではないだろうか。期待は高まった。

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