幻のルーツ 風早へ 九萬山へ
第2部 14
ダムができるまえの竜岡の村 大きな森が天神社 現在の光景 明見下の湖畔から天神社を臨む
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幸門城秘話・流浪将軍の子「通勝」
再び「玉川町誌」によれば……。正岡氏の人々がその町の要職を独占している、というのは言い過ぎか。これは先にも触れているが、「正岡乕三郎」(明治元年5月10日生まれ)は鬼原村庄屋武田萬三郎の二男坊で養子入りし、越智郡の郡会議員を6期勤めた後、竜岡村長に。玉川町歴代議長の中に「昇」があり、議員で「寄一」「一男」が名を連ねているし、以降、「典行」「克己」「明」「義人」「多喜男」の名が登場している。また鈍川村の「太八」、九和村の「金右衛門」はある時期、村長として活躍している。
「古城をゆく」に描かれた「湖底の村」
 他地域、例えば北条の諸町村では決して窺えなかった一族の賑わいだが、それだけ、その山間の村で「正岡氏」が尊崇を集めている証拠である。そして玉川ダムの完成によって過疎化に拍車がかかっていった。このダムの登場によって湖底に沈んで行ったものが列記してある。竜岡小学校(81年の校史を閉じる)、竜岡農協、同保育所、玉川町公営住宅、天神社、玉川町避病舎、同治療所、同役場竜岡支所、墓地など18の公共施設や一般家屋(住家78戸、非住家123棟)土地・道路(旧主要地方道・松山今治線)。なお、天神社などはダム上部に移転したが、住民の多くは町内の鴨部団地や今治市内の桜井団地へ移転したという。
地元の愛媛新聞に連載し、後に単行本化した「古城をゆく〈伊予の中世史より〉」(松久敬著)のなかに、勿論「幸門城」の項があり、史的考証の部分は割愛して、臨場感のある節を書き出してみる。いずれ、そこには足を踏み入れることになるはずであるが……。

(前略)今治から蒼社川沿いに県道をさかのぼる。鬼原を過ぎると道は二つの方向に分かれる。東に向かえば鈍川温泉で、西に行けば、やがて川の流れをかたくなにさえぎっている玉川ダムの堰堤がある。その先は、いま満々とみずをたたえる人造湖だった。
 ダム・サイトは、かつての山腹あたりになっている。山すそを流れていた川の岸には、学校や農協を含めた40戸ほどの集落があった。もっと昔は、幸門城主の居館もそのあたりにあったのだという。そこは竜門の古い伝統があった妙見前と呼ばれる地域である。しかし、昭和45年を境に、すべては水底に没してしまった。もう2度と日の目を見ることのない古里である。
 道路から人造湖の中ほど、やや出張って天神社の境内があり、社殿の背後は古木の茂みになっている。
「古木の下は幸門城主一族の墓があったところです。ダムの水位がその辺までのぼったので、さらにその上に移し、社殿の横側に置き替えたわけです」
そう教えてくれた玉川公民館長の白石義秋さんも妙見前の住人だった。
「おそらく、天神さまの山すそあたりが幸門城主正岡氏の居館跡だったのだろう。そこから幸門城は、ちょうど真北の方向です」
このゴチック文字の部分は、初めて登場する展開である。得居衛氏の「正岡氏考」ではまだ触れられていなかった。『風早』第17号所載の長野光雄氏の「河野通勝について」が、初めて肉感を持って触れているのではなかろうか。
 白石さんは城跡の登り口になる妙見前の岩成谷に連れて行ってくれた。そこから見る城跡は、南北に延びた山頂だった。嶮しい山の傾斜が深い谷に続いて、容易に攻め登ることがかなわぬ山容だった。(後略)

足利15代将軍義昭の北の政所は河野通宣の娘!?

このシリーズは『歴史の焦点』と題して、それぞれに然るべき人の解説が付されていて、それが出色である場合が多い。ここでの筆者は、玉川町文化財専門委員長の品部清隆氏で、幸門城主正岡氏につながる後裔だと紹介されていた。今治史談会のメンバーだという。
「(前略)幸門城の正岡氏は、これら15将を旗本におき、近辺最大の城主であった。
 通高・経政は、ともに河野家末期の近親で、河野家の城代家老を勤めた重臣である。経政の正室は、河野晴通の女だった。晴通には三女があり、一人は穏居田治部少輔元清の妻の一人は黒川美濃守通将の妻となっているが、男子がないため、実弟通宣を養子として河野家を相続させた。通宣の女は天正3年ころ、足利15代将軍義昭の北政所となり、養子通直は、天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に際して、伊予を離れ、安芸国竹原に転居して毛利氏の庇護を受けた。しかし、生来病弱のため、天正15年に竹原で死去したので竹原には立派な墓碑がある。

 河野系図によると、正岡右近太夫経政は河野晴政の娘婿であるため、河野氏の道後湯月城の城代家老を勤め、また晴通の弟通宣の女の章子と足利義昭との間に生まれた通勝を幸門城で経政が養育したと伝えられる。(後略)

このゴチック文字の部分は、初めて登場する展開である。得居衛氏の「正岡氏考」ではまだ触れられていなかった。『風早』第17号所載の長野光雄氏の「河野通勝について」が、初めて肉感を持って触れているのではなかろうか。
龍岡寺の裏山入り口にこの看板がある
「おつかさん」と呼ばれる祠 参詣者は
玉石にお経を書いて奉納する
「将軍の子」通勝を供養する五輪塔
「お塚さん」と呼ばれる五輪塔

長野氏が注目したのは龍岡寺の塚堂である。開基及び創立は詳らかでないが、正岡氏が風早郷から、この龍岡荘中通城に移住した平安後期から鎌倉初期と思われる。この寺の本尊薬師如来は秘仏として、開基以来ずっと開帳せず二重扉の奥深く秘められたままであった。その間、河野氏没落の天正13年(1585)以後、ここが河野昭王丸(河野九郎通勝=足利義通)の隠れ家として、正岡備中守常貞(正岡分家、右近太夫常政甥、龍岡寺と同じ、中村の渡瀬城主)にかくまわれ、通勝−通周−通俊の3代に及ぶ居館であったようである。(4代通昌からは伊予郡松前郷西古泉の金蓮寺に移っている)。
幸門正岡氏の氏寺でもあった龍岡寺

幸門城主・経政の密命を受けて……

 そして「伊予古城跡」(伊予史談会)によれば、岸宗右衛門の項で、以下のようにさりげなく秘史の一片を滑り込ませていた。……河野家が亡んだ時、岸(きし来住)忠達は、正岡常政の内意を受け、越智郡龍岡幸門山城に、河野幼君昭王丸を奉じて蟄居する。以来、鍋地住人、品部某と共に昭王丸への奉仕専念する。慶長五年(1600)河野再興の為、荏原陣に加わり戦功あるも敗戦。河野旧臣殆ど戦死す。正岡常政夫妻及び河野昭王丸は、岸忠達・品部某をして、桂で自害し終わると吹聴せしめ、ひそかに、正岡備中守常貞の居城越智郡龍岡中村渡瀬城に匿う。

 岸忠達は、その子、八郎右衛門が、加藤嘉明に味方したので、罪を許され、久米郡来住邑に居住する。子孫今も尚あり。
そしてこの注目すべき一文の締めとして「4代通昌からは、伊予郡松前郷に移住し今に連綿と続いている」と、その消息を伝えている。得居氏亡きいま、長野氏への期待は、ますます大きくなった。
 
 長野氏は決して書斎の人ではない。(逢ったわけでもないのに、そう言い切れる)自分の足で確かめ、実証していく歴史ジャーナリストと見た。「足の向くまま、気の向くまま」と題した連載を始めているが、(3)(4)で広島県竹原にフェリーで渡り、河野家最後の当主・通直の最期と殉死した家臣団への鎮魂取材は出色だった。さらに(6)(7)は「高縄山系周辺と南朝(小倉宮)」で、独自の視点で中世武士団の構造を捉えていた。それが、龍岡周辺の「山の民=木地師」の存在を高縄山系山岳武士団と重なった視点を教えてくれたし、対立する石鎚山系武士団との350年に及ぶ抗争など、河野氏=正岡氏を見据えた行く上で、新しい段階へぼくを押し揚げてくれた。黒滝神社(周桑郡丹原町田瀧赤ヶ谷)を振り出しに楢原山の奈良原神社の廃社跡と経塚宝塔とまず高縄山系に於ける修験道の行者僧尼の修行場を訪れながら、河野氏武士団の意外な裏構造を明らかにしていく。
郷土史を足で書いた長野光雄氏(2005年物故)
竹原市長生寺にある河野通直公の墓
 河野通有が、鎌倉幕府の命を受け、元冦防衛のため、筑紫へ出陣した時(この頃の河野氏は衰微していたので)、引率した兵士たちの大部分は、石鎚山系瓶ヶ森の蔵王権現信仰の山岳武士団と、高縄山系最高峰、東三方ヶ森山塊の古権現を信仰する(黒瀧神社はこれに属する)山岳武士団で、これら武士達を、河野一族が武将となり、水軍によって九州まで輸送したのである。弘安4年(1281)の元冦の役に大功を立てた通有ではあるが、引率した両山系の武士団の多数の戦没者の菩提を弔うため、両山系の中間の地、多賀北条に長福寺を創建している(今の東予市多賀)。なるほど、そうか、と肯ける一面だ。 時代が変遷して、高縄系は南朝方・小倉宮方として、石鎚系は武家方・北朝方のなって、相互に、350年余の間、争いをくり返しているという。それを象徴するように、石鎚山と高縄山はお互いが顔を背けて対立しているのか。しかし、現実の戦力が当初は山人族中心だったのが、やがて村上水軍の中心として海人族へと移っていく。旧守派と革新派の対立の図式。その村上水軍ですら、やがて秀吉方の九鬼水軍の火力の前に敗退する。

 南朝の小倉宮について、ほとんど知識がないため、それに殉じた高縄山系修験道の山伏たちの悲鳴まで理解できないのは残念だが、三方の山々へ、山麓へ、尾根伝いに容易に到達できる山岳連絡の拠点として幸門山も組み込まれているとは、何かが匂ってくるじゃないか。

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