足利15代将軍義昭の北の政所は河野通宣の娘!?
このシリーズは『歴史の焦点』と題して、それぞれに然るべき人の解説が付されていて、それが出色である場合が多い。ここでの筆者は、玉川町文化財専門委員長の品部清隆氏で、幸門城主正岡氏につながる後裔だと紹介されていた。今治史談会のメンバーだという。
「(前略)幸門城の正岡氏は、これら15将を旗本におき、近辺最大の城主であった。
通高・経政は、ともに河野家末期の近親で、河野家の城代家老を勤めた重臣である。経政の正室は、河野晴通の女だった。晴通には三女があり、一人は穏居田治部少輔元清の妻の一人は黒川美濃守通将の妻となっているが、男子がないため、実弟通宣を養子として河野家を相続させた。通宣の女は天正3年ころ、足利15代将軍義昭の北政所となり、養子通直は、天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に際して、伊予を離れ、安芸国竹原に転居して毛利氏の庇護を受けた。しかし、生来病弱のため、天正15年に竹原で死去したので竹原には立派な墓碑がある。
河野系図によると、正岡右近太夫経政は河野晴政の娘婿であるため、河野氏の道後湯月城の城代家老を勤め、また晴通の弟通宣の女の章子と足利義昭との間に生まれた通勝を幸門城で経政が養育したと伝えられる。(後略)
このゴチック文字の部分は、初めて登場する展開である。得居衛氏の「正岡氏考」ではまだ触れられていなかった。『風早』第17号所載の長野光雄氏の「河野通勝について」が、初めて肉感を持って触れているのではなかろうか。 |
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| 龍岡寺の裏山入り口にこの看板がある |
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「おつかさん」と呼ばれる祠 参詣者は
玉石にお経を書いて奉納する |
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| 「将軍の子」通勝を供養する五輪塔 |
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