いまや無人の集落廃村の光景だけが残されて
鈍川・竜岡木地は蒼社川の本・支流ぞいの源流地帯にあり、広大な山林に取り囲まれている。が、昭和30年代に過疎化が進展する以前から、すでに山林の多くは外部の地主に所有されていた。民有林の94%が村の所有だったのが、大正4年に木地の住民に分割所有されたあと、昭和の戦前にかけて、今治など外部の山林地主に売却され、ついには第2次大戦後、村を挙げて離村していった典型的な過疎集落となった。鈍川の場合、明治44年には37戸141人の村が、大正年間には33戸、昭和35年には21戸となる。ついには昭和43年にはまったく無人の集落廃村となる。 竜岡木地も明治21年には30戸であったのかさみだれ方式に減少し、昭和60年には4戸14人の淋しい集落となってしまった。
両集落の挙村離村の要因は、木材の伐採が減少したり、製炭業が衰退して現金収入が減少したのと、奥地集落であり交通が不便であったという社会的のものにあるが、燃料革命の影響で炭焼きによる現金収入の途絶が最大のものだったろう。 挙村離村は先発隊が後発の者に情報を提供したり、就職を斡旋することによって、誘導されるのが通例である。正岡重吉・クラ夫妻が5人(?)の子供たちの手をひいて筑豊へ新天地を求めて伊予を捨てたパターンもこれに近かっただろう。というのも、わが友・利島雄之助の話にヒントを得たことであるが、東予・桑村から「月賦商」として全国に散った人たちが、各地で成功を収めているという。二神氏は福岡と田川で。櫛部氏は宇部と横浜で。利島夫人・美智子さんの実家・長井氏は小倉・東京で、と。(この件は後述する) 離村者は今治市内で親睦会を結成し、いまでも欠かさず旧交を温めているという。鈍川木地で、氏神の奈良原神社に因んで奈良原会を結成し、竜岡グループも木地会を結成、種々の情報交換と親睦を深めている。住民を失った集落には廃屋がいまにも潰れそうだし、山林もまた、保育する人もなく、概して粗放の惨に泣いている、とか。
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| 竜岡木地は「田鍋」姓が多く見られたが今治市内へ流出 |
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| 木地観音堂には今も訪れる人があるそうだ |
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| 観音堂の石柱寄進板に刻まれた氏子の中に正岡姓あり |
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