幻のルーツ 風早へ 九萬山へ


第2部 13
竜岡木地には、かつては分校まであったのか 校舎もそのまま、今は朽ち果てて
山人研究に新しい視点がある
「玉川町誌」にこんな章があった。高縄山地の過疎集落〈鈍川木地と竜岡木地〉と題す「木地屋集落」の現状報告である。木地師については、いささかの興味があるし、長野光雄氏の最新レポート「高縄山系周辺と南朝」に触発された部分でもある。
竜岡木地と鈍川木地
高縄山の山ふところ深くに、木地という地名が二つある。一つは玉川町の鈍川温泉の奥地にあり、他は同町玉川ダムの奥地にある。前者は旧鈍川村に属するので鈍川木地と呼ばれ、後者は旧竜岡村に属するので竜岡木地とよばれる。

 木地という地名の集落は、轆轤でもって木工細工を生産する職人の村、すなわち木地屋の集落であることが多い。伝説によると、木地屋は惟喬親王を祖師とし、承平5年(935) 御綸旨をいただいき諸国山々を伐り次第という許しを得て、近江小椋郷から全国各地に散らばったという。木地屋は木地免許・往来手形・宗門手形・縁起書・御綸旨の写しなど、いわゆる木地屋文書をもち、自分達は高貴な身分の人の血をひくので、一般のものとは通婚しないという誇りをもっていた。

 玉川町の2つの木地集落が、木地屋の定住した集落であるかどうかの確証はないが、種々の状況証拠からして木地屋の集落と見ていい。その理由は、鈍川木地には、自分達は木地屋の子孫であるとの伝承が残っていること、昭和43年に廃村になる前の住民の姓が、木地屋の子孫の姓である門田と門岡姓が多かったこと、木地の道具である鉋などが残っていたこと、また年2回の御当(おとう) の家での組寄りには、木地の食器を用いて会食していたこと、通婚は集落内で行うか、竜岡木地と行えば間違いがないといわれてきたこと、などがあげられる。竜岡木地も部落内婚が多く、他は鈍川木地以外との通婚はほとんどなされなかったという。

いまや無人の集落廃村の光景だけが残されて

 鈍川・竜岡木地は蒼社川の本・支流ぞいの源流地帯にあり、広大な山林に取り囲まれている。が、昭和30年代に過疎化が進展する以前から、すでに山林の多くは外部の地主に所有されていた。民有林の94%が村の所有だったのが、大正4年に木地の住民に分割所有されたあと、昭和の戦前にかけて、今治など外部の山林地主に売却され、ついには第2次大戦後、村を挙げて離村していった典型的な過疎集落となった。鈍川の場合、明治44年には37戸141人の村が、大正年間には33戸、昭和35年には21戸となる。ついには昭和43年にはまったく無人の集落廃村となる。
竜岡木地も明治21年には30戸であったのかさみだれ方式に減少し、昭和60年には4戸14人の淋しい集落となってしまった。
両集落の挙村離村の要因は、木材の伐採が減少したり、製炭業が衰退して現金収入が減少したのと、奥地集落であり交通が不便であったという社会的のものにあるが、燃料革命の影響で炭焼きによる現金収入の途絶が最大のものだったろう。
 挙村離村は先発隊が後発の者に情報を提供したり、就職を斡旋することによって、誘導されるのが通例である。正岡重吉・クラ夫妻が5人(?)の子供たちの手をひいて筑豊へ新天地を求めて伊予を捨てたパターンもこれに近かっただろう。というのも、わが友・利島雄之助の話にヒントを得たことであるが、東予・桑村から「月賦商」として全国に散った人たちが、各地で成功を収めているという。二神氏は福岡と田川で。櫛部氏は宇部と横浜で。利島夫人・美智子さんの実家・長井氏は小倉・東京で、と。(この件は後述する) 離村者は今治市内で親睦会を結成し、いまでも欠かさず旧交を温めているという。鈍川木地で、氏神の奈良原神社に因んで奈良原会を結成し、竜岡グループも木地会を結成、種々の情報交換と親睦を深めている。住民を失った集落には廃屋がいまにも潰れそうだし、山林もまた、保育する人もなく、概して粗放の惨に泣いている、とか。
竜岡木地は「田鍋」姓が多く見られたが今治市内へ流出
木地観音堂には今も訪れる人があるそうだ
観音堂の石柱寄進板に刻まれた氏子の中に正岡姓あり

 
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