幻のルーツ 風早へ 九萬山へ

第2部 12
得居さんの生まれ育った正岡郷の秋祭り 神輿を先導する「提婆(だいば)」
得居さんの生家は住む人もなく…墓は竹林の中
巨星墜ちて 風早の里 闇深し
得居衛氏の『正岡氏考』に取り組みながら、こうも考えていた。

「汝、風早の郷へ急ぎ往け!」という題名が、本稿を書き出したときから、当然な顔をして、ぼくの中で収まっていた。まだ「風早の郷」がどんなところかも知らないうちに。そして一行、『姓氏苗字事典』に「正岡氏」の項あり、と。随分と、気障な、思い入れたっぷりな一行だと、本人が感じるくらいだから、次の一行に『愛媛面影』からの引用とはいえ、「古は、風速(いまなら加佐波夜ともっと気障に) と書きたり、と」という受けまで用意してしまった。

松山から北条に入る急峻な岬を回ると「風の色が変わる郷」と聞いていた。妙に心が騒ぎ、引き付けられた。「急ぎ往け!」は、わが心の叫びである。早く往かないと、間に合わないぞ、という声でもあった。何が間に合わないのか。
その人の名はすでに目次から消え……
 得居衛氏の『正岡氏』に寄せる熱い想いが、その一連の研究成果に触れて、真っ直ぐに飛び込んできた。『愛媛県の地名』から始まった「史料探訪・3ヵ月」のお陰で、充分に氏の論述が理解できた。もし、最初から『家名事典』のような答えが用意されていたなら、あ、そうだったの、と素通りして、ここまで1行、1行に対応、反応することはなかったに違いない。正岡一族が河野氏の有力家臣で、東からの防禦線確保のため、高縄半島東部の山間に幸門城を築いたり、府中に近い朝倉平野を見下ろすために鷹取城を築いたり、秀吉の四国平定後の痛ましいドラマ、そして河野三島神社の神職として代を嗣いで来たことなど、父祖の一族に関する、ぼくの情報収集の能力を『正岡氏考』が問うている。そんな感じで、得居氏の世界を堪能した。間違いなく、この人は同系列の人であった。逢いたい。心底、願った。
『風早』誌での発表は昭和61(1986)年4月号。14年前か。ふと気づいた。今でも『風早』は年2回の刊行を続けているのか。そして、ご本人は健在なのか。

答えは直ぐに出た。「最新号」を指定すると「第41号」が手元に届く。表紙こそ全く同一の仏像(薬師堂木造菩薩立像=奈良朝風像容)の横顔で号の表示が変化するだけなのに、内容は様変わりが激しかった。活版からオフセット印刷に。そして、目次にはもう「得居衛」の名はない。ひょっとして!

40号に総目次が載っているという。早速、お願いした。
平成6年12月発行の第32号に「故得居衛先生を偲びて」の1行。やっぱり間に合わなかった。第33号に「追悼特集」がある。これで詳細を知ることができるに違いない。

 悼 師の訃聞き直す電話や雷激し      玉井洋三
   衛兄ふと逝きにけり秋の雲         木村蕩々
   君逝くや静かに流る秋の雲
右端が得居氏 わが亡父と同じ面差しなのに驚く かつての正岡村神田にある歴代の墓で永遠の眠りに……

得居衛氏の遍路姿の写真に、改めて唸った。面高で鼻の存在が真っ先に来るこの容貌が風早地方の定番なら、まさしくわが父・徳一がそこにいた。細かいことはまだ材料が不足しているので、調べてから後述するとして、教職につく傍ら、植物学者として顕微鏡を覗く生活が続いた。植物採取で山歩きする。昭和天皇に御覧にいれる植物を石鎚山へ単独で入った。1メートルを超す雪。普段なら半日のコースを、2日半の食料を用意して、めざす植物を雪の下に求めた、という。そして郷土史研究家としての顔。俳人でもあった。俳号「去湫」。奥さんの佐衣女さんと合同で句集「鳩笛」を上梓したという。

   膝打って唄う蛮歌の酒涼し
   酔ふほどにほろほろ侘し春の夜
   しるべ石だけが便りや冬遍路
   梅天や乾くひまなき脚絆巻く

(この句は「渋柿」誌平成6年9月号掲載で、最後の遍路行句)

 『去湫の一面』                   永野秋羅

(前略)去湫の本当の価値は俳句作者としての彼ではなく、生物に挑む全身全霊の精力的傾倒の姿にあると云えよう。生物愛好は彼の全生命の流動である。彼から生物と酒を奪ったら……(中略)……彼の偉大さは後半生の北条市の歴史的背景の掘り起こしの功績だと思う。

  悼 秋暑し野の草々もひれ伏して
  愴々と炎天の風ありにけり
  巨星墜ちて風早の里闇深し
  風早の佳き秋待たず逝かれしか     (翠陽)   合掌
最後のテーマは未完の「河野氏考」だった

 得居衛氏の蔵書、歴史資料、写真等は「ふるさと館」に寄贈されたという。「風早歴史文化研究所」も、今では市役所からここ(別府)へ移っている。

 因みに得居氏の住まいは八反地近くの神田にあって、少年時代から宗昌寺の境内を走り立岩川を水練の場としていたわけだ。

「総目次」から、氏の精力的な執筆活動が読み取れる。「風早」という「ふるさと」に、これほど情熱を燃やし続けてきた一学究の人生に、深い敬意と愛着を覚えてならない。最後のテーマは、『河野氏考』であったに違いない。第25号『通説河野氏の省察(一)』が未完のままなのが、さぞかし心遺りだったに違いない。近年、「河野通忠、その覆われた生涯を追って」大分県臼杵の熊崎三島神社まで足を伸ばしていた。いずれ、ぼくのテーマとして妻の母方が「河野氏」の関わりのある家筋だとしたら、という仮説から、豊後佐伯庄の「河野一族」を掘っていくつもりである。それだけに、得居氏が逝かれて、すでに6年が経っているとは、残念でならない。「風早の郷」からぼくを呼んでいたのは、あなたの声だったのか。そう思えてならない。

【私註;通忠は弘安の役に父・通有に従って、当時14歳でありながら従軍し父とともに元の軍船に乗り移って功をたてたが、帰国ののち河野郷柚ノ木谷に住み、神途城主となったこと、及び嫡男でありながら家督を継げなかったこと以外に、その消息が今日に伝わっていなかった。ところが最近、義弟・通治の家督継承を確認したのち、臼杵に渡って、熊崎を終焉の地としたという文書が発見されたという。熊崎は明野の渡辺家の本貫である。これも因縁めいて、心がうずいてくるではないか】

日豊線熊崎駅(大分県)の傍にある三島神社
神殿の厳かな構えからうかがえる「歴史の古さ」を追ってみる
「河野通忠、その覆われた生涯」調べの原点はここあったのか

一族の反響と郷土史誌『風早』の「それから」

正岡氏考」に触発された一族の人々の反響も採録しておく。
 
会員通信     滋賀県草津市矢橋                正岡 義億

松山在住重見恒典氏より風早9号をご送付賜りました。「正岡氏考」の記事は、私達正岡一族にとりましては、本当に貴重な御文章として拝読させて頂きました。本当に風早は河野一族、正岡一族の心のふるさとです。私も2,3年前、正岡郷を訪れました。宗昌寺に参拝いたし遠祖のご遺徳に感激しました。私事、先祖は越智郡玉川町鍋地出身にて、現在は私の代にて草津に居住いたして居ます。風早9号68ページの新田義貞公に従って河野一族北国へ落ち延びる時、延元元年、木ノ芽峠にて大雪のため全滅の記事がありますが、伊予官軍三百余騎が戦死なされた地は現在北陸線近江塩津駅の近くにて滋賀県伊香郡塩津といふ所にて土居通増公を祭神とする氏神様大川神社に祭祀されています。正応寺という曹洞宗の寺院には土居通増公、得能通綱公の御墓もあり、本堂には両公の位牌が安置されています。(中略)毎年春祭に松山、周桑郡土居町得能部落(東予市)の御子孫町民の方がマイクロバスを仕立てて、近江路に参拝に参られてします。
春祭は4月11日、秋祭は御戦死の日の10月11日です。攝社には得能通綱公伊予三百騎の正岡氏考の戦死者がまつられています。(後略)
滋賀県塩津にある大川神社は新田義貞に味方して散った
土居通増公を祭神とし、得能通綱公の墓もあるという
土居・得能両公に随行、あえなく異郷で散った戦士たちの墓群
郷土史研究の意味を問う……だから心が急いでしまう

大阪市浪速区葦原                    正岡  貢

(前略)祖先正岡氏に関する得居氏のご高説があり、感興深くして読みました。年に1、2回、玉川ダム湖畔にある墓に参拝しております。私も出生は南予の山中ですが、三島水軍に関して興味をもち、勉強中です。(後略)

 ついでに言えば、草津の「義億」氏は、この投稿が縁となって「大川神社と正応寺の由来」という一文を第S号に寄せている。元気の出る話ではないか。そしてもう一つ。義億さんは鍋地の出身であり、貢さんは竜岡のどこかにご先祖の墓所があるという点に注目したい。
正岡氏の末裔たちは河野氏消滅とともに、どうなったか、という視点に到達する。神職に復帰(?)して正岡郷に戻れた鷹取城主系は別にして、玉川周辺の山間の村に帰農したもの、あるいは平地に降りて未墾の地の開発に取り組み、新しい道を拓いたものなど、世のの中の表面に出ている様子はない。本貫の地・風早、あるいは正岡郷は心に秘めて、他地方に散っている。得居氏が指摘するように、生活圏が同じ高縄半島でも東部へ傾いて
いるという現実が、ぼくの「周平さん」捜しと軌を一にしているのだが……。

『風早』誌が20年をかけて蓄積してくれた「風早郷情報」が、いま、ぼくの中でグツグツと音をたてて発酵しはじめている。少し時間を与えて寝かしておけば、きっと予測もしなかった味と香りをもった貴腐ワインとなってくれるはずである。そう信じて、「風早」がもたらしてくれた情報・解析を整理しておこう。
こうした郷土史研究は、松山の伊予史談会の独走と思っていたが、多分、景浦勉氏らの精力的な活動があったからこそだろうが、北条市でも同じ動きがあったのを知って、はなはだ心強い。一時期、各地方自治体が「県史」にはじまって「市誌・町誌・村誌」の発行で妍を競った。史料の掘り起こし、解読、整理・分析などの作業を通して、「郷土史」研究に火が点いたのが、今になって、非常に役立つ。

 得居衛氏の「郷土史『風早』を省みて」(第15号)は、編集委員長の立場から、その辺の事情に触れていて、興味深いものがある。
「郷土史研究の会をつくろう」「機関誌『風早』を起こそう」このことは郷土の歴史文化に関心をいだく多くの郷土人の希望であり、過去に於いても文化財保護にたずさわる人々を中心に計画話合いなどされていたこともあると聞いている。(略)
現在、北条市民の中にも仕事のかたわら、市内周辺の山野をたずね遺跡研究に明けくれ、また風早の古文書研究、古寺探訪に、また文化研究をお互いの書庫や仲間の小人数の間に閉じ込めておくのでなく、大いに発表の機会を作り、その力を結集し、理解し励ましあってゆくことは目下の急務であろう。

 郷土風早をつつむ美しい大自然、ひっそり佇ずむ野の仏たち、幾星霜をへた古城の石垣、古色蒼然とした神社仏閣の甍、すべては歴史という時間と空間の大きな流れ、波動の中に息づき、私たちすべての先祖の怨念が、この中にこもっていると思う。(中略)とかくして幾多の経緯のうえに、機が熟し、「風早歴史文化研究会結成趣意書」が昭和53年1月28日付で出来上がり、ついに同年5月27日、北信連三階会議室を借りて本会創立総会をもつことができたのであった。
 当初の会員数は、一般会員70名・賛助会員53名・特別会員22名・学生会員その他会員13名・全会員数161名でこの会は発足したのであった。(略)
 会誌「風早」の内容としても、正しくなければならぬが、学者と違って郷土人としての新しい考えを自由に気軽に出し合い、素人の見方、考え方にたって、郷土祖先の歴史を眺め、解釈する、誰もが親しめる会、並びに会誌にしようではないかとの発言にしぼられていたのである。

 あれからすでに七年の歳月が過ぎて、昭和60年末の今日、風早第14号に載った会員数は386名にふくれ上がっている。このあたりで、ひとまず立ち止まり、時勢の移り変わりとともに、会の行き方、風早誌のあり方など、自分たちの会誌になっているかどうか、改めて反省を願い、さらに会発展の足がかりとしていただきたいものである。

 得居さんの「風早」にかけた情熱と、それを裏づける謙虚な人柄か窺えて、とても快い。その人の後を受けて、だれがこれからの「風早」を引っ張っているのか。八反地在住の門田協之介氏もすでに鬼籍の人となっているし、篠原徹旨氏もつい先頃、逝去されたのが、バックナンバーを繙くうちに、判明してくる。間違いなく、この分野は、それに携わる人の寿命の問題が地雷のように、足もとに仕掛けられているのがよく分かる。

 それでも、長野光雄(今治在住)、玉井利明(高縄神社の神職か)のお二人には注目している。特に長野氏の「東予」側からの視点は、発見が多い。玉井氏の「娑婆山」は神職としての正岡氏の「原点」を教えてくれたほか、「河野の聖母」や「墓碑銘にみる夫婦別姓」など、琴線に触れる考証があって、ぜひお目にかかりたいのだが、最近号にその名がないのが、やっぱり気になる。まさに、「急ぎ往け!」である。

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