最後のテーマは未完の「河野氏考」だった
得居衛氏の蔵書、歴史資料、写真等は「ふるさと館」に寄贈されたという。「風早歴史文化研究所」も、今では市役所からここ(別府)へ移っている。
因みに得居氏の住まいは八反地近くの神田にあって、少年時代から宗昌寺の境内を走り立岩川を水練の場としていたわけだ。
「総目次」から、氏の精力的な執筆活動が読み取れる。「風早」という「ふるさと」に、これほど情熱を燃やし続けてきた一学究の人生に、深い敬意と愛着を覚えてならない。最後のテーマは、『河野氏考』であったに違いない。第25号『通説河野氏の省察(一)』が未完のままなのが、さぞかし心遺りだったに違いない。近年、「河野通忠、その覆われた生涯を追って」大分県臼杵の熊崎三島神社まで足を伸ばしていた。いずれ、ぼくのテーマとして妻の母方が「河野氏」の関わりのある家筋だとしたら、という仮説から、豊後佐伯庄の「河野一族」を掘っていくつもりである。それだけに、得居氏が逝かれて、すでに6年が経っているとは、残念でならない。「風早の郷」からぼくを呼んでいたのは、あなたの声だったのか。そう思えてならない。
【私註;通忠は弘安の役に父・通有に従って、当時14歳でありながら従軍し父とともに元の軍船に乗り移って功をたてたが、帰国ののち河野郷柚ノ木谷に住み、神途城主となったこと、及び嫡男でありながら家督を継げなかったこと以外に、その消息が今日に伝わっていなかった。ところが最近、義弟・通治の家督継承を確認したのち、臼杵に渡って、熊崎を終焉の地としたという文書が発見されたという。熊崎は明野の渡辺家の本貫である。これも因縁めいて、心がうずいてくるではないか】
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| 日豊線熊崎駅(大分県)の傍にある三島神社 |
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| 神殿の厳かな構えからうかがえる「歴史の古さ」を追ってみる |
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| 「河野通忠、その覆われた生涯」調べの原点はここあったのか |
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