幻のルーツ 風早へ 九萬山へ

第2部 11
中通山城の中腹にある「しろぬしさん」の祠。
祀られているのが初代経孝か
「しろぬしさん」のご神体 正岡初代・経孝が城を構えた中通の山稜
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幻の「正岡氏考」を掘り当てる!
国立国会図書館の「即日複写」の受付けは午後四時で、正確に打ち切られる。『風早』から得居衛氏の「正岡氏と正岡村」を発見したとき、時計はすでに4時を回っていた。諦めて帰るには内容が貴重すぎるし、早く手元に残したかった。ノートに写し取ることにしたが、閉館時間の午後5時には、まだ第4章が届いていなかった。心が急ぐ。
時計はすでに午後4時を回っていた。 すぐに図書館は閉まってしまう!
読む! 片っ端から目を走らせた!
 昭和53年11月創刊の『風早』誌は、発行元が「北条市歴史文化研究会」で、事務局は北条市役所の中の、さらに教育委員会社会教育課内にあり、得居衛氏が企画編集委員となっていた。

 何のことはない。この年末に北条市に父祖の遺伝子を求めて迷いこんだとき、中通河原の蜜柑畑で「正岡建設」の4輪トラックに驚いたあと、北条市役所には立ち寄っている。残念ながら年末休暇に入っていたため、アプローチ出来なかったが、市役所前の電話ボックスで「北条市の正岡姓」のリストはデジタルカメラにしっかり収めておいた。

『風早』は第14号から第19号までが合本となっていた。総目次を点検。あっ、と声が出てしまった。なんと第9号には「正岡氏考」が掲載されてある、という。幻の「正岡氏考」に、やっとめぐり逢えるというのか。改めて、2枚目の請求カードをドキドキしながら叩頭して、受付嬢に手渡したのであった。

得居衛氏
「正岡氏考」を待つ間を利用して、再び本館へ戻る。「即日複写」のコーナーでコピー26枚(819円)を受け取る。「風早郷の正岡氏と正岡村」と一緒に、いくつかの記事を同時に指定して置いた。「伊予の奇傑・大森彦七とその一族」は粟井村に根を張る旧家に関わる一族の話なら、「久保」「河原」は無縁ではない。是非、目を通しておきたいものだ。「八反地村庄屋門田家『累代役儀勤仕録』考」を現代の当主が発表しているとは。これも欠かせない。勿論、得居衛氏のもう一つの作品「河野氏最後の一齣」も忘れずに。一気呵成とはこのことか。どどっと、巨きな波濤に呑みこまれたような興奮。

 読む。片っ端から目を走らせた。間違ってなかったぞ。己れに言い聞かせた。「正岡氏の出自は風早郷にありながら、いつの時代から龍岡の幸門城に移って行ったのか」「正岡郷との関わりは?」などに確実にレスポンスしながらも、ぼくの参考文献の洗いだし方に間違いがなかった、と自信をもたらすほど、得居氏も同じ史料を駆使していた。それでも地元の研究者ならではの史料も幾つかは披露する。「正岡家宮内文書」などであるが、第一印象は景浦勉氏ほどアカデミックではなく、論理より感性、評論よりエッセイに近い語り口だ。
肝腎の「正岡氏考」はどうだろうか? 記念すべき力作なので全文を原文のまま、ここに記載する。

「元祖はみな河野の御子なり。苗字は地名妙なるにより、これを付く」
伊予の守護・河野家を支える十八の侍大将衆
 正岡氏考                得居 衛

 (一)河野十八家

 河野盛衰記巻末に「当家の一族相勝れたる十八姓あり。後人呼んで十八家と称し、また十八将とも言う。これ本家をたすけて国中を治める基の人々なり。その十八家と言うは大内・久枝・中川・重見・正岡・能島・来島・忽那・得居・平岡・松末・戒能・今岡・黒川・和田・土居・得能これなり。」とし、その各姓の出処を記している。

 また河野家譜人数の巻(河野分限録のこと ) には十八人侍大将として「(既に所載済みにつき省略) 右十八の侍大将衆は御陣の時、脇備え、後備え、或は敵域を攻取り給うの節は番手仰せ付けられ、いづれも御連枝の末葉、御譜代家老衆の筋目なり」とあり、また別書には「家元祖みな河野の御子なり。苗字は所々地名妙なるところこれ有るにより、とかくにして付く。諸郡の大将は定めの城を築き、領地は分け持ちを付して与え置かれる衆なり。」と述べている。 前回はこの十八家のうち「重見氏考」をまとめたので今回はこの中の正岡氏をとりあげてみたい。
  (二)正岡氏の系譜

 正岡氏は河野親経の弟に北条六郎太夫康孝があり、その子、北条太夫経孝を祖とすると言われる。

 金蓮寺本河野系図には「康孝は正岡・石崎・久万などの元祖」とし、また越智系図には「経孝、正岡氏の祖」と載せている。この他、正岡氏について比較的まとまって記載されたものとしては「水里遡録」がある。次にその中の「正岡氏本家来由の事」の一節を借りさせて頂こう。
【私註】既に所載済みにつき、アウトラインだけにする。

「予州大将三十二人の内なり。累代新宮祭務を掌られける。(略)而る後御当家数多に別れ(略)繁昌しける。(この後、本城は龍丘村幸門城で、度々軍功を顕した。就中河野通直に随従した西国処々の合戦での軍功比類なきこと、後太平記並びに予章記に詳し。そしていかに河野家を後見し守り立てたことに触れ、例の家老の謀反に翻弄されたりした右近大夫通高事件を紹介し)主君・通直卒去で一族も散々となり通高も出家して法名を一心と申し九二歳にて卒去せられける。男子二人ありしが一人は出家、次男半左衛門通成は長州で死去、その子源右衛門は北条村で民間人となる」

 先頃、北条市誌編纂資料を集めていた際、宮内の正岡家資料を見ることが出来た。その中に「風早郡宮内村正岡六郎左衛門家由来書」があり、次の記事が見られた。
「…(略)…玉澄より二十代に当たって河野伊予新考の男子北条太夫と号す。これ則ち正岡の門、宗昌寺殿なり。私家の元祖これより越智郡龍ノ岡にて氏を正岡と改め、村も龍ノ岡と号し、同村にて河野(氏)より幸門の城を領地下され、越智風早の内にて両地を守護いたし下され居り候。是によりて今に越智風早両郡の内に正岡の庄と言う門名有るなり。しかる処その後元歴年中に河野通信公より御書これ有り。天正年中秀吉公四国退治のとき河野河野御家並びに御分家の私等その余、諸郡地領これを取り上げられ小大名とも断絶す。

 天文年中三嶋宮社職を仰せつけられ御書これあり。
 河野通直公芸州竹原に於いて御生害、法名長法寺と号す。このとき私先祖へ下さる御書これあり。 右の外は河野 家よりの御書二通これあり。」

 と記録それている。

 さらに次の書き付けは「河野三島宮神職の事」と題して「私家の遠祖正岡丹後守経孝と申す人、当社地頭、神職に補任され、それより代々相続仕り来たり候なり。」と記し、「高縄神社神主、正岡式部太夫、鷹取山城主正岡紀伊守実弟、天文二十三年五月新宮地頭神主職を相続、風早に移り住む。五月二十日佃次郎に攻められ討死。」とし、次の系図を書きとめている。

(高縄神社神職正岡氏系図)

【私註】別掲「正岡氏系図」参照。式部太夫(重武=重氏)から重閑と重康に分かれ、一旦、玉井姓になり正岡に復姓する家筋であった。

 これらは高縄神社(新宮)神職としての正岡氏の由緒を明らかにした資料であるが、正岡一族が河野氏より分かれ、北条経孝より出ていることや、本家は正岡郷から龍ノ岡に移り、幸門城主となっていたことが明記されている。更に高縄神社神職の正岡氏は鷹取城主より分かれた家筋としている。してみると、ここ幸門城主としての正岡一族と鷹取城主としての正岡一族との関係が判れば正岡一族の全貌がうかがえるわけである。

   (三)正岡子規の家系

 ここに一つ興味のある記録を見出した。それは昭和五十二年九月、伊予史談二二六〜七合併号に正岡子規の家系について柳原多美雄氏の文が載せられていることで、その発表の内容を見ると次のように書かれてある。
正岡氏はもと風早郡八反地に居住していた豪族で代々河野氏に仕えた。戦国時代になって河野氏の重臣に正岡通高と言う人があった。越智郡龍岡下村、幸門城主で、当時湯築城主であった河野弾正少弼通直の娘を妻として河野家一門として重きをなしていた。通高の子は常政で父のあとを継いで幸門城主となった。
河野分限録に「正岡右近太夫、越智郡幸門城主、手勢一五騎、御旗本組あわせて三〇騎」と見えている。古文献によると、この人の諱は経政と書いたり、常政と書いたりしている。
 子規居士の家筋は、どんな続き合いか不明であるが、子規は常規、その父は常尚、曾祖父が常武と、常を頭に置くのは正岡右近太夫常政の子孫であることを裏書きしているように思えると述べている。

 このように見てくると、前記の高縄神社神職として分かれて来た正岡氏は重武(重氏の誤記)・重勝・重綱といずれも頭に重の字が置かれ、鷹取城主重盛の弟筋である。
 ところが幸いにも前記宮内村の正岡邸で、さらに走り書きとも見える「河野家正岡氏系図」の資料が見つかったのである。
経孝、経兼、頼経、弘経……
中通城4代、そして幸門城へ 武将としての正岡氏
  (四)幸門城主系正岡氏について〔河野家正岡氏系図〕は略す。

 伊予古城砦記を見ると「中通城」が龍岡村にあり、正岡丹後守拠守すと書かれ、伊予温故録にも同じく「中通城」は龍岡上村中通にあり正岡丹後居ると記されている。この記載の丹後守は正岡経孝を指すものと思われる。
中通部落の背後に高さ二九五mの小山があるが、これで正岡氏は早くからこの地に居住していたことと思われる。ところが菊間町誌によると「幸門城」について、この城は玉川町龍岡下、妙見前・鍛冶屋・長谷・桂の四部落の接点二四〇mの頂点にある山城で、河野家十八将のうち正岡尾張守・備後守、修理亮昌仲・備後守元安・左衛門太夫経成・丹後守経貞代々の居城であると記されており、また「俚諺集」を見ると風早郷北条館の項に、
「北条太夫親孝・経孝・風早大領安国・風早伊予権介為綱皆この地(北条館)にいる」
と書かれている。北条館は北条市本町と上町の境の辻天満宮のあたりである。 したがって正岡氏は親孝、康孝、経孝の頃は正岡郷の北条館に居り、経孝が後に龍岡へ移って後、弥太郎弘経頃まで龍岡中通城に住み、経純頃から幸門城に移ったものであろうと考えられる。
正岡一族の主城・幸門山城址の頂上。本丸址か?
「宮の台石造宝篋印塔」今も香華の絶えることなし
なお幸門城で正岡右近大夫経政城主の天正七年、正岡氏の家老鳥生石見守の謀叛と言う大事件が起きている。この頃の正岡氏は手勢一五騎、御旗本組一五騎、合して三〇騎。旗本衆は正岡備中守、中川三郎右衛門尉、得居石見守、向井筑前守、門真三郎兵衛尉、正岡右衛門尉、北美濃守、正岡九郎三郎、中川藤左衛門尉、中西左内、正岡弥九郎、門真太郎兵衛、長野越中守、別宮修理大夫、別宮縫殿助。なお経政の正室は河野晴通の女であると記され相当の勢力を持っていたらしい。

 この時の事件については「伊予二名集」は次のように記している。

 天正七年に家老鳥生石見守は反逆を企て、鷹森城主越智駿河守と相はかり、正岡右近大夫経政を討取って、来島旗下に属そうとした。ところが未然に隠謀が露顕したので右近大夫は別宮大夫親子と甥の縫殿介の三人に命じ石見守を幸門城中で討ち果たし、三人はすぐさま石見守の宅を囲んだが、その妻子はすでに遁走して鷹森城へ向かっていのである。別宮大夫らはこれを急追し、鬼原村でこれを斬り殺してしまったという。今も鬼原部落に五人衆の墓があると言う。

 なお龍岡、宮の台に天神社があり、その裏手に正岡家の墓が並んでいる。昭和三九年三月「宮の台石造宝篋印塔」として文化財に指定され、更に龍岡上の中村には正岡館の跡が今も残っている。

 予陽河野家譜によると河野家最後の主君通直は天正十五年七月九日湯築城を出て、三津の港から御乗船、竹原へ向かうのであるが「譜代の重恩の氏族郎従僅かに五十余人なり」と言う淋しい出発であった。この時随従した家来たちの中に正岡右近大夫常政の名は含まれていたのである。

 また予章記、河野通堯に供奉し鎮西から帰国した人々の中に「正岡十郎入道、舎弟中務丞、尾張守と見えたればこの正岡氏の一族中ある者が宮方に属し、賊軍と戦いしものならんか。尚後考にまつ」とある。
これを宮内村正岡氏の系図でみると、十郎入道は経長で、中務丞経義や尾張守経久は経長の子になっていたが、これは間違いで、経秀の子に経長、経義、経久などの兄弟があったものであろう(系図もそのように書き改めた)。なおこの系図を見ると正岡氏の分かれとして周布郡大熊城主となった大熊三郎経氏がある。
【私註;熊山の周平はこの線か】

 また同じく周布郡剱山城主となった黒川美濃守通広がある。この黒川氏は久万の大野紀伊守利直に協力して、東予の戒能氏や和田氏と度々兵火を交え、また黒川対馬守通俊は、そのために戦死している。

 河野家譜によると「通宣の天文一三年、久万大除城主大野紀伊守利直、兵を起し浮穴郡小手滝城を攻む。城主戒能伊賀守通運防戦す。紀伊守かの城の用水を絶つ。戒能退いて大熊城にたてこもる。(略)(天険の大熊城を攻め落とすことを得ず)空しく囲みをといて引き退く。城兵勝に乗じて城門を開き逃ぐるを追うこと甚だ急なり。寄せ手、度を失いて、命を落とす者、その数を知らず。 黒川対馬守通俊大野に与力して寄せ手の中にあり。久米郡則ノ内村にて自害す。斎院瀬に墓あり。」との記事が見られる。

  (五) 鷹取城主系正岡氏について

 正岡経秀の長男尾張守経長は入道して十郎入道宗栄と名乗り、幸門城を舎弟経久に譲り、また鷹取城を同じく舎弟の六郎左衛門尉重盛に与えた。
 幸門城主正岡氏家は前記の通り名前の頭に「経(常)」を置いたが六郎左衛門尉は鷹取城主となるに及び、重盛と「重」の字に変えたものではなかろうか。以下鷹取城主正岡家は名前の頭に「重」を置いているようである。

 以下この宮内村正岡氏記載の鷹取城主系正岡系図をまとめてみよう。

〔河野系正岡氏系図(2)〕略

 ここ鷹取城について伊予古城砦記には、下朝倉村古谷にあり。正岡紀伊守経長居るとあり、予陽郡俚諺集には古谷村の西方鷹取山上にあり。正岡紀伊守経長居る。 経長曽て河野氏に叛す。河野、重見、来島等にこれを討たしむ。経長謝罪して軍門に降る。
 天正一三年小早川と戦い落城す。この村内清水姓の者鷹取祭と称し、今に正岡氏の霊を崇祀せりと記している。

 予陽河野家譜には、通直弾正少弼の大永三年七月、鷹取山城主正岡紀伊守、屋方に背き恣ままに猛威を揮う。重見来島に誅罰せしむ。紀伊守叶わず城を出て降る。よって囚人となり来島家に預けらる。高山左近将監(中川組)得重石見守(正岡組)両人をして鷹取の城番たらしむ。後年赦免あり。と書かれている。

 なお朝倉村の上古谷にある竹林寺は小千守興開基の寺と言われ、この寺の文珠院のかたえに鷹取城主正岡紀伊守の墓が、本寺開祖と、提灯測量と治水で功のあった長井忠五衛門の墓と共に並んでいる。

 この竹林寺はまた世田山城落城のとき十五歳の河野通堯が陣僧につれられ、ひそかにこの寺にかくまわれたことで知られている。また一方、鷹取山落城のとき、城主正岡紀伊守の妻子は、寺の近くにある鹿の子池のほとりで自刃したと言われ、ここに供養塔があり、現在はこのあたり遊園地になっている。

   (六) 結論

 以上乏しい資料で結論を急いだために、多少疑問とする所はあるが、とりあえず大綱をまとめたつもりである。したがってまだまだ訂正しなければならない点が出て来るものと思われる。ことに正岡氏系図(1)の経純−経秀と尾張守−備後守がそれぞれ同一人物であるのか、又は全然別の人であるのか。また正岡氏系図(2)の重氏は重武、重閑は重勝、重元は重綱と資料によって名前が異なっているのはどうしてか。或いは幸門城主系の家筋では名前の頭一字が常の文字を用いているのに対し鷹取城主系では重の文字が使われているようである。ところが伊予古城砦記などで鷹取城主正岡紀伊守だけが経長になっているのは何故であろう。むしろ越後守重長の子紀伊守重長とあるべきが至当のように思われる。或いは紀伊守重光と経長が同一人かも知れない。また通縄は遡録では経貞の養子となっているが、宮内の正岡系図では通縄は直経の養子になる。

 その他、鷹取城主正岡紀伊守が河野氏に叛く動機は何であったのかなどの疑問も残されている。以上一先ず問題のいくつかを残しながら一応ここで擱筆する。

                                   『風早』第九号(昭和五八年四月)
参考資料・正岡氏略系幸門山城主鷹取山城主
得居さんの盟友・長野光雄氏が「風早9号・正岡氏考」に拠る「正岡氏略系」を纏められているので、理解の一助として、引用させていただいた。

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