幻のルーツ 風早へ 九萬山へ

第2部 10
江戸時代に描かれた八反地の風景(「愛媛面影」より) 宗昌寺のある丘から国津彦神社を臨むと恵良山が正面に
「風早郷の正岡氏と正岡村」(得居衛
 松山に関する図書目録を洗う作業の中で、ひょいと浮かび上がってきた文字がある。北条市風早歴史文化研究所刊『風早』である。357ページ構成とあるから、どんなことが載っているか、ちょっと覗いてみよう。そんな軽い乗りで申し込みカードに書名を書き入れた。
急展開! 「風早」誌と出会う
20分後、手元に届いた『風早』を開いて、目を剥いた。執筆者の1人に「得居衛」さんがいるではないか。『姓氏苗字事典』で文献として紹介されている「正岡氏考」の筆者である。どれほど、この筆名を探し回ったことか。やっと逢えるぞ。しかも、ここに掲載されているテーマは、はじめてピントのしっかり合ったものがふんだんに並列されていた。特に「正岡氏と正岡村」は全文、写し取っておこう。
風早郷の正岡氏と正岡村     得居 衛
       (1)
 北条市合併前の正岡村は風早郷の大氏神と崇められる延喜式内社の国津比古神社、櫛玉比売命神社があり、この神社の岡は古代「頭日(かぐや) の岡」と呼ばれていた。またここ風早郷は和名抄によれば平安時代の半ばころ「粟井郷・河野郷・難波郷・高田郷・那珂郷」という五郷に分かれ、那珂郷が中郷の意味で、風早の中心であったわげある。ところがいつの頃に高田郷と那珂郷が一つになって正岡郷となり「風早郷は即ち粟井郷・河野郷・難波郷・正岡郷」となった。この正岡という名称は一体どこから名付けられたものであろうか。私はこれと「正岡氏」と関連して考えた。それは寛永4〜12年(1627〜1635)頃の伊予国一国絵図検地の郷村数帳を見ると「正岡郷」が「八反地・中西・寺谷・院内・波田・神田・辻・北条・土手内」と北条市合併前の正岡村・北条町だけでなく、その上に「才ノ原・滝本・猪木・中村・米之野」と立岩村の大半が加わり、正岡氏の本拠地の越智郡竜岡村へ続いているのである。そこで正岡氏の系図と竜岡村を探訪することになる。
郷土歴史文化を育む「風早」の表紙
       (2)
 初冬の日ざしうららかに、まさに小春日和の中を友人長野光雄氏とあらかじめ目ざしていた懸案の竜岡中通の「城主(しろぬし) さん」を訪た。
「竜岡中通のしろぬしさん」といえば中世竜岡城の城主正岡氏の墓にちがいなかろう。中通城主正岡氏の記録によれば旧風早郷の北条館に居住していた北条新大夫親経の弟、北条六郎壱岐守康孝の嫡子として経孝がいて北条大夫丹後守経孝と称し越智郡中通城主となっている。「この城主さん」もおそらく中通初代の城主経孝の墓であろうと考えた。

経孝はのち保延年間(1135〜一1140)に河野郷宮祭務職となり正岡郷に移り、これより正岡姓を名乗り、法名を道鑑とも号したという。したがって平安末期には「正岡郷」の名称は出来ていて経孝がその郷名をとって正岡姓と名乗ったことがわかる。

現在北条市河野地区宮内の正岡家に「風早郡宮内村正岡六郎左衛門家由来書」があり、これに「玉澄より20代に当たって河野伊予親孝の男子北条大夫と号す。これ即ち正岡の門、宗昌寺殿なり。私家の元祖これより越智郡竜ノ岡にて氏を正岡と改め、村の名も竜岡と号し云々」と記されている。この竜岡中通城の城主は経孝からはいま、

   大夫        太郎         正岡弥太郎     尾張守 太郎大夫
経兼        頼経          弘経        経純       
   中通城主      元久二年鎌倉右府  中通城主      幸門城主
             ときに新宮領地頭
               をたまう。中通城主

と続き、経純になってから正岡氏は幸門城へ移っている。したがって中通城主は経孝、経兼、頼経、弘経の4代であって「しろぬしさま」として祀られているのは、たぶん中通城初代の城主の北条丹後守正岡経孝であろうと考えられる。ことにその妻の孝子は叔父康清の娘で、経孝の従妹にあたり、のち正岡村八反地に大虫和尚をまねいて宗昌寺を開基した宗昌禅尼である。
「城主さん」は中通山城の中腹に平地をつくり、小さな草堂を建てて、一石五輪塔を1基だけポツンと祀ってきわめて簡素なものであった。山腹の1段下った所にも狭い平地を開き、十数基の新旧雑多の墓があり、墓石面には別府氏の名が多く、中でも最近のものとして「別府馬治夫婦の墓」があり、妻は猿川篠原為治二女ミツ子とあって、今でも峠を越え て、北条方面との通婚圏とを思わせたし、長野氏が電話帳で現時点での近村正岡氏の分布を調査したところ、竜丘上、下20戸、それから今治市への蒼社川筋、鴨部までに38戸、長谷、葛谷32戸となっているそうだ。これが風早方向では正岡、北条への立岩川筋で22戸、河野、粟井15戸と分布していて、近世はその生活圏が今治平野から越智郡方向に傾いていることがわかる。

山を下って中通部落に入り、土地の古老に、「ここに祀っている城主さんはどなたでしょうか」
「正岡丹後経孝公といいませんか」
などと聞いてみたが、はっきりしたことはわからないと要領を得ない答えがかえって来たばかりであった。

旭が真っ正面に昇ってくる岡
      (3)
いよいよ結論として古代から呼ばれていた「頭日(かぐや) の岡」が「正岡」になった理由である。それはただ想像するほかに根拠のある問題ではないが、まず「頭日の岡」とは、「旭が真っ正面に昇ってくる岡」を意味する。即ち「那珂郷の東に横たわり祖神饒速日命を祀る神聖な、しかも真っ正面に旭の昇る岡、国津比古命神社の岡」をさしていると見たい。この岡は立岩川がまだ岩瀬川と呼ばれ高田から高縄山麓の裾を流れて「頭比(かぐや) の岡」の南方を過ぎ、中西外から別府・黒岩の方へ流れていた頃で、那珂郷が、この岡の南端と山裾の間へ狭められ「佐古」地形を形成していた頃の話である。したがってこの「頭日の岡」を「日の真東から昇る、また高縄山裾との間に佐古のある岡」即ち「真日の佐古の岡」とも呼んだであろう。それは次第に簡素化され「真日佐古の岡」から「真佐古の岡」=「真佐岡」=「正岡」になったものではなかろうか。そのように考えると正岡氏は「大祖先饒速日命を祀る大氏神の岡の名を自家姓として芽出たい名であめというわけである。
ちなみに正岡村が成立したのは明治22年12月、市町村制実施により庄村を除く八反地・寺谷村、神田村、院内村、波田村、中西内村、中西外村の7ヶ村が合併して八反地庄屋宅の勘定場跡を借り、村役場として、正岡村が発足したのであった。この村名「正岡」を決定するときも、多分、氏の祖神の御霊います岡の名を挙げて全員一致賛同したことであろう。

正岡地区の中央通りの突き当たりが国津彦神社

神社へ通じる石段 そ両側の石玉垣に「正岡姓」は?

正岡館はどこにあったのか
      (4)
最後に残る問題として、正岡経孝がこの正岡郷のどこへその居館を置いたであろうかという点である。
風早の中心那珂郷、即ち正岡郷の地域内のどこか。これに対する答えとなるべき資料も今はほとんど無い。ただ正岡氏系譜、経孝の条項に「河野郷宮の祭務職となる。正岡郷へ移る」とあるのと、従妹の孝子(宗昌禅尼)を室として「正岡郷八反地宗昌寺開基」の記録があること、さらに当時、宗昌寺は国津比古命神社の馬場の西方、「寺の内」の旧跡地、現在の正岡農協付近に創建され、天文年間(1532〜1554)に大火で伽藍の大半を焼失しているのである。

神社を右におれると向かいの日当たりのいい丘の上に、正岡氏の氏寺「宗昌寺」がある
そこで正岡館の土地を正岡郷内と限定して、大胆な憶測をしてみると、それは八反地の「上金剛屋(こごや) 」「下金剛屋(ここや) 」あたりではなかろうかと考えた。その理由としては、この上下両金剛屋は、ここから東方に、祖神国津比古命神社、またそのはるか東方延長線上に高縄山頂を遥拝できる位置にあることである。

第二にはこの所の地名「金剛屋」である。この「こごや」はもと「おごや」の転訛で、はじめは「上のおごや」「下のおごや」すなわち「御小屋」がいつか「こごや」「金剛屋」とあて字を用いて、ますますもとの意味がわからなくなったものでもあろうか。

城主の屋形のある所を「土居」あるいは「小屋」と呼ばれているのは普通のことであるが、御領主正岡氏の館、すなわち「小屋」御小屋」のあるところの意味を持たせた小字とみてよいのではなかろうか。 ここから前記の宗昌寺のあったという「寺の内」は近く、その中間に人々への風呂を施した「遊屋(ゆや)」の地名もみられる。 また河野郷宮の祭務職として河野郷や河野館への連絡、交通の便も考えねばなるまい。当時の地形の上からも、この金剛屋を居館として、たいした無理は無さそうに思われる。

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