幻のルーツ 風早へ 九萬山へ  

第2部 9
 松山城天守閣 東京・根岸の「子規庵」
いよいよ「松山藩」と「松山市」にのりこむか
 田中重吉と渡部クラの二人が世帯を持ったのは、わが父・徳一(三男)の誕生が明治37年だったことを考えると、多分、明治20年代の後半で、日清戦争勝利の余熱がまだ覚めやらぬ時期だったろう。つまり、愛媛県に市制・町村制が施かれたのが明治21年(1888)だから、その後のことになる。養父・正岡周平さんが市会議員だったいうのが真実なら、それは松山市以外にない。周桑郡なら、郡会か村会の議員だと思えるのだが、その痕跡は、かなり綿密に目を配ったのに発見できなかった。ならば、いよいよ『松山』に乗り込むしかないではないか。

松山関係の文献を洗う作業から始めた。

◎松山市誌  複製限定版(大正年間製作)

◎松山市史料集・全13巻

◎松山町鑑 三田村秘事録 伊予史談会

◎松山藩役録 伊予史談会双書第19集

◎愛媛県史

子規と無縁ではいられない
『松山藩役録』から洗い出す
真っ先に『松山藩役録』に食欲を覚えた。実は『風早郷』に深く関わり、「正岡氏」に接近すればするほど、「正岡子規」と無縁ではいられないのだ。従って、子規に関する家系、松山時代の経歴等の洗い出しは、すっかり終えたと確信している。その子規の家系を考証する際に、必ず登場するのが『松山藩役録』であった。子規の実父・正岡隼太常尚は十四石取りの松山藩士で御馬廻加番であったのが記録されているからだった。同じ姓をもつ周平さんにかかわる手掛かりはないものか。

第10代藩主松平定則の文化5(1808)年に調査した記録『松山俸録』の「御目付支配」の項に「三人扶持拾石 一代大小姓格 正岡所平」を発見。
引き続いて、御目付付 支配歩行格という訳の分からない役職に「二人扶持八石 正岡大六」がいる。ついでながら、浮穴郡九万山という文字が目に飛び込んできた。郡手代の項であるが、「クマヤマ」とはやはり「久万山」が正解かも知れぬ。
地図をみると、松山から南へ砥部を行き過ぎ、高知へ向かう要衝の町が「久万町」であり、山沿いに東へ向かうとかつて「周桑郡」と呼ばれた地域に入ることができる。松山から海へ向かうと北条で、同じくらいの距離を南へ下ると「久万山」というのも、何か匂ってくる位置関係じゃないか。

『松山歴俸略記』は藩命によってそれぞれの家の系図を提出させたものという。「四代 十四石 正岡治兵衛  初代団七、宝永年中山手代抱、後郡手代、四代目部屋住之内歩行目付、文政七年十二石大小姓、親病死之節二石加増、天保十四年服忌仮役」とあるが、この家系こそ、子規のご先祖である。

残念ながら、周平さんの実在する拠点が立証出来ない限り、この手の史料ではすっきりこない。そこで「松山史料集」で市会議員の名簿を探そうとするのだが、まだそれらしき巻に到達できないでいる。「近世編」には秘蔵の各家の古文書が収録されているのが分かったから、近く「渡部家文書」に逢えるかもしれない。これは楽しみの一つである。
正岡子規像(子規記念館所蔵)
東京田端・大竜寺に眠る「子規居士之墓」
『松山=子規=わが氏祖との関係』
この図式に、ぼくが目覚めたのは、前田小学校5年の時だったろう。授業が終わって、廊下へ吐き出された。6年生グループと対面した。「おい、あいつがマサオカシキじゃ」
 6年生のひとりが、ぼくを指さして、次に顔を覗き込むように、身をこごめた。
「おぅ、シキじゃ。マサオカシキじゃぞ。柿食えば……」
「鐘が鳴るなり」
「法隆寺、じゃぞぅ」
 上級生の一団は大きく頷き合い、若干の尊敬の念をふりまきながら、ぼくを解放してくれた。 キョトンとその一団を見送るぼく。腑に落ちない言葉だった。

「正岡式? なんだ、それは?」
 少年の疑問に、担任の山本半七先生が見事に光る頭を撫でながら、答えてくれた。
「そうか。6年は正岡子規を習っとるとこやのぅ。シキちゅうのは偉い俳句を詠う人で、五・七・五でなんでも表現できるんよ」
「ふ〜ん。その偉い人がうちの親戚におるんですか」
「そら、知らん。家に帰って、聞いてみろ」
 それが「正岡」姓にぼくが関わった最初の出来事だった。誇らしげな記憶だった。

 好むと好まざるとに関係なく、一生を共に伴走してくれる「正岡」姓は、ぼくに負の影響は全くなかった。むしろ等身大以上に、ぼくを拡大してくれたかも知れない。例えば、司馬遼太郎さんが急逝された1996年に、こんな内容の文章を「アウディ」の広報誌に寄稿しているので、ここに写し取っておこう。

司馬さんに初めてお目にかかったのは、1964年、司馬さんが41歳、ぼくが29歳のときだった、と書けるのも、司馬さんの年譜に一行だけ、こんな記述があるからだ。

11月、「伊達の黒船」を『日本』に発表
子規自作自筆の墓碑銘(子規記念館所蔵)
司馬遼太郎さん(手向山神社前にて)
当時、講談社の看板雑誌のひとつ『日本』という月刊総合誌の編集部に籍を置いていたぼくは、読み切り小説の依頼で、その年まで住まわれた大阪・肥後橋河畔の高層アパートに司馬さんをお訪ねした。眼鏡の奥の柔和で深い眼差し、まだ半白だった量感のあるお河髪。ぼくの差し出した名刺をふわりとした手つきで受け取られる。

「出身は四国・松山ですか?」

 と、尋ねられた声の優しさが、いまでも耳の奥に懐かしく遺っている。初対面の相手の苗字から会話を始められるのが得意だと、後で知った。

「はい。父の代まではそうでした」

「子規との関わりは? 正岡子規も若いころ『日本新聞』の記者だったから、あなたと同じような名刺を使うたんやろな。よろし。四国にまつわる話をお書きしましょ」

 そのころ、司馬さんは『竜馬がゆく』を上梓したばかりだった。1月後、どさりと1袋の郵便物が届いた。それが『伊達の黒船』だった。(後略)

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