『松山=子規=わが氏祖との関係』
この図式に、ぼくが目覚めたのは、前田小学校5年の時だったろう。授業が終わって、廊下へ吐き出された。6年生グループと対面した。「おい、あいつがマサオカシキじゃ」
6年生のひとりが、ぼくを指さして、次に顔を覗き込むように、身をこごめた。
「おぅ、シキじゃ。マサオカシキじゃぞ。柿食えば……」
「鐘が鳴るなり」
「法隆寺、じゃぞぅ」
上級生の一団は大きく頷き合い、若干の尊敬の念をふりまきながら、ぼくを解放してくれた。 キョトンとその一団を見送るぼく。腑に落ちない言葉だった。
「正岡式? なんだ、それは?」
少年の疑問に、担任の山本半七先生が見事に光る頭を撫でながら、答えてくれた。
「そうか。6年は正岡子規を習っとるとこやのぅ。シキちゅうのは偉い俳句を詠う人で、五・七・五でなんでも表現できるんよ」
「ふ〜ん。その偉い人がうちの親戚におるんですか」
「そら、知らん。家に帰って、聞いてみろ」 それが「正岡」姓にぼくが関わった最初の出来事だった。誇らしげな記憶だった。
好むと好まざるとに関係なく、一生を共に伴走してくれる「正岡」姓は、ぼくに負の影響は全くなかった。むしろ等身大以上に、ぼくを拡大してくれたかも知れない。例えば、司馬遼太郎さんが急逝された1996年に、こんな内容の文章を「アウディ」の広報誌に寄稿しているので、ここに写し取っておこう。
司馬さんに初めてお目にかかったのは、1964年、司馬さんが41歳、ぼくが29歳のときだった、と書けるのも、司馬さんの年譜に一行だけ、こんな記述があるからだ。
11月、「伊達の黒船」を『日本』に発表 |
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| 子規自作自筆の墓碑銘(子規記念館所蔵) |
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| 司馬遼太郎さん(手向山神社前にて) |
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