幻のルーツ 風早へ 九萬山へ

第2部 7
大正12(1923)年頃の撮影 粟井坂から北条方面を臨む 旧街道粟井坂峠 松山藩の「狼煙場」として使用されたという
「北条市誌」と粟井村の人々
 国立国会図書館で『北条市誌』『東予市誌』を閲覧する。『北条誌』は得るところが特に多かった。江戸時代の「庄屋・組頭」一覧、「粟井村村会議員(明治23年〜昭和30年)名簿」、「明治貮拾六年國會議員撰舉人名簿」などで「田中=久保村」「渡部=河原村」に関する情報を深化させることができたのである。
江戸時代の「庄屋・組頭名」から見えてくるもの
そのころの風早郡では、大庄屋・改庄屋が世襲的要素(例えば八反地が門田家の世襲であったように)を持っているのに対して、いわゆる庄屋職は百姓から登用される例も少なくなかった。浮沈の激しい職といえた。庄屋は村高に応じた庄屋給米を与えられ、庄屋抜地または庄屋貫請地と呼ぶ土地の経営が許される、美味しい立場であった。役割としては村寄合の司会・年貢・諸役の割付・村人の生活一般に関する管理などである。

 この他、郷筒(庄屋に準ずる地位)、組頭(一村に1〜数名。通常5人組から選出される。役割は庄屋の補佐であり、給米は4斗程度。村内の本百姓から交替で)と任免一覧があって、当時の様子が窺える。
 まず18世紀から19世紀初頭の「庄屋・組頭名」である。

 正岡郷の本拠の一部である「中西外」は喜八、喜平太と続いて、明治初年に渡部喜八とあるのは意味深い。
高縄神社のある「宮内」は理右衛門、長五郎、正岡綿。
「善応寺」は六右衛門、田中幸左衛門、田中弥。
「河原」は宝永2年(1705)庄屋・権兵衛、組頭・長兵衛。久八、五兵衛、田中直巳(里正)。
「久保」は二神勘右衛門の預かりから、八郎左衛門、中川賢次郎、中川信賢、とある。

 少し重複するが、宝暦三年(1753)から文政元年(1818)までの大庄屋・庄屋・月番・御蔵番・組頭等任命の記録で「久保・河原」に関係のある記述を摘出してみた。

1753(宝暦3)    大庄屋格      渡部太郎左衛門
1770(明和7)    久保  庄屋    八郎左衛門
1772(〃 9)     河原  〃      平蔵
1785(天明5)    河原  改庄屋   平左衛門    もと庄屋兼郷筒
1786(〃 6)    河原  庄屋    平蔵
1793(寛政5)    河原  庄屋    久八  百姓より昇格、居村庄屋。十ヵ月。
1818(文政元)   河原  庄屋    広次 預庄屋仙波八兵衛差免。
                         広次は元河原庄屋与兵衛(中須賀在住郷筒)の倅。

そして、父の両親がそれぞれに在村しただろう時代の記録に大接近する。粟井村村会議員名簿だ。

2期(明治26〜32)   竹田佐太郎  久保
4期(明治32〜38)   田中石蔵    河原
〃 (明治32〜37)   新田義一    久保
6期(明治38〜44)   清水熊五郎  久保
〃 (明治39〜41)   重松芳太郎  河原
7期(明治41〜44)   新田善一    久保
8期(明治44〜45)   新田善一    久保
〃期(明44〜大正3)  重松芳太郎  河原
10期(大正7〜11)    田中 昇    河原
〃 (大正9〜11)     荻山恒太郎  久保
12期(大15〜昭和5)   渡部岩太郎  河原
13〃(昭和5〜9)    清水庄作    久保
〃  (〃   )      重松喜太郎  河原
〃  ( 〃   )     清水好蔵    久保
15期(13〜17)       重松喜太郎  河原
〃  ( 〃  )      新田半次    久保
16 期(17 〜21)      田中義高    河原
〃 (17〜22)        大森隆太郎  久保
17期(22〜26)       西原  進   久保
〃 (〃)           玉井隆次    久保
18期(26〜30)       田中敏和    河原
〃  ( 〃)        西原  進   久保
〃  ( 〃)        河野春見    久保
   (資料:各町村議事録・公職者名簿・選挙録)
粟井橋を渡る「お遍路さん」 里は196号線沿いにある
粟井の里の春 松山方向を臨む 左の山が「宅並城址」
この名簿に、例の「ゼンリン住宅地図」に載っている家名・所帯主名と敷地などの構えを重ねてみるとどうなるか。

 久保村から行く。竹田姓は表通りである県道と平松川と交差するバス停前の、この村のど真ん中に「竹田勲」。これは間違いない。新田姓は「久保集会所」の隣に「新田稔」と「新田木工所」。これも一等地である。清水姓は目抜き通りと海寄りにあった。久保児童公園に隣接する「清水宣郎」が後裔であろうか。それとも今では粟井簡易郵便局となっている「清水長徳」か。
荻山姓は、最初、どこを探しても見当たらなかったが、北条バイパスの開通で境界をいびつにされた西の一角で発見した。「荻山典久」と「巖」のどちらだろう。西原姓は新田木工所の南に「西原組(西原修)」とある。
玉井姓も県道を挟んで海寄りに三軒が肩を寄せ合っている。「玉井義雄」が本家らしい構えだ。河野姓は久保池の畔にあった。なんと天理教粟井分教会が「河野春見」邸を兼ねていた。大森姓は「市役所粟井支所」と軒を並べて四軒もあった。旧家ならではの構えに違いない。因みに、明治初期まで庄屋・里正であった中川家は久保に隣接する鹿峰地区にあった。
県道湯山・北条線で久保に入る手前に「中川敏光」、JR予讃線の線路際に「中川商事(和男)」とある。発見できて、ほっとする。たとえ、どんな事情があるにせよ、一つの家が消えていくのは、心が騒ぐ。

 久保から粟井川橋を南下する。「田中姓」だらけである。「重松姓」も負けずに蝟集している。
「渡部姓」は祖母の実家である。河原集会所のすぐ傍の「渡部隆男」がそれに違いない。まだ足を踏み入れてないにもかかわらず、その佇いが見えてくるようである。

 期待はずれは「國會議員撰挙人名簿」。北条の永井仙太郎の納税額は336円。別府の渡部重次郎は192円。やっと河原から田中直巳が顔をだ出す。27円也。続いて河原の渡部長五郎の22円、そして田中石造の20円。荻山儀十郎(19円)、重松好太郎(18円)とあって、ついに久保村から名前が出て来ない。痩せた村だったのか。 因みに「河原」は礫地または、川床の意味であろう、と。「久保」は、土地がその付近にくらべてやや低いところの窪み意味から、そう呼ばれたという。

「北条市誌」には「民話と伝説」の項があって、その語り口に「父の匂い」がする。方言の一つ一つに、あっと思い出す「父の声音」がある。たとえば……。

粟井神社(小川)
 昔、小川の浜で網を引きよったら、ご神体がかかって、不思議なことじゃというて堀江との堺にある粟井坂の「ふるとながる(古戸が坦)という所へ、粟井明神を祭ってあったんじゃそうな。
このお宮では、和気郡と、風早郡の小川村で夜相撲をやっておったんじゃそうな。その後、今の宇佐八幡神社(えぼういが森)の麓に海の方向にむけて祭っておったんじゃそうなが、沖を通る舟をよくかやす(転覆させる)ので、ある年、今の宇佐八幡神社の所へお祭りしたんじゃと。そじゃけん今でも神社の手水鉢にその記録が残っとるんよ。(話・林関四郎)

『愛媛県史』から「方言」を摘出しておいたので付記する。

 アイソもコソもない  アゴ(雇われて舟に乗る人)  アシコシタタン(財産をなくして無力になるさま) アラクタイ  イイヤイコ(口喧嘩)  イッツモカッツモ(いつも、いつまでも)  イテコーワイ(行ってきます)  ウットコ、ウチカタ(わが家)ウラ(僕、自分のことをさしていう) セカラシ(忙しい、煩い)センナランソーサ(手間のかかること)etc。

 耳もとに響くこの伊予弁は、父のものより、黒崎の伯父ふたりを思い出させる。

【私註】この時点では、祖父方の田中一族は久保村の在という、父の言葉を核として考察を進めていたから、随分と偏った情報収集をしたものだと、いまにして気づく。

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