○○会社 本文へジャンプ
鷹取城址・ふたりの正岡紀伊守 今もゆかりの村人に守られている五輪塔や祠の数々
朝倉村古谷地区と背後にそびえる鷹取山城 経長の供養碑(右) 五色山竹林寺
  正岡氏研究に取り組むと、多分、最初に登場するのが「鷹取城主・正岡経貞」という武将ではないだろうか。正岡氏をたぐり寄せるためには、伊予の中世から戦国時代末期までを宰領した河野氏の動静について取り組まなければどうにもならない。正岡氏が河野氏本家から派生した一族で、特に河野氏が戦国時代に入って宗家と予州に割れて不仲になり、恩顧の家臣団がそれぞれについて崩壊への道に迷い込んだ時期、かなりの働きをしたので、いくつかの史料・文献の登場してくるからである。
正岡経貞という武将の謀反
 ぼくの場合、史蹟めぐり@で触れたように、得居衛氏の「正岡氏考」にめぐり逢うまでは、もっぱら「伊予史料集成」の『河野家文書』『観念寺文書』とか、「歴史シンポジウム」シリーズに納められている『河野氏と伊予の中世』に光明を求めた。唯一、具体的な顔をもったのが「正岡経貞」だった。彼の役割は謀反者だった。たとえば、景浦勉氏は『河野家文書』の解説にこう書く。
 
 そのころの河野治世は末期症状に近かったことを念頭に置いて欲しい。(当時の河野家は通宣によって辛うじて保たれていた)『高野山上蔵院過去帳』によると、通宣は永正一六(1519)年七月二〇日に野間郡来島城で病没している。
 通宣の後を経承したのは、その子の通直であって、太郎といい、後に弾正少弼に任ぜられた。このころ河野氏の統制力は予州家との内肛によって次第に弱体化したばかりでなく、恩顧の武将のなかにも離反するものが現われ、通直はその討平に奔走しなければならなかった。
 大永三(1527)年七月に府中鷹取城主の正岡経貞は兵備を整え、一族とともに謀叛を企てた。通直は重見・村上(来島)の家臣団を派遣して、その討伐に当らせた。やがて経貞は失敗して通直に降伏するに至った。
鷹取山城址へはこの急峻な上りを這うようにして
 この間の反乱を裏書きするものとして『三島家文書』に収められた、通直から、大祝家にあてた書状を参考のために掲げてあるが、煩瑣なので、ここでは省く。

 経貞という武将を面白い、と思った。主家に弓を引きながら許されている。どんな事情があったのか。それにこうした出来事をものがたりふうにまとめて「豫州風雲録」あたりでは、ほかの有力武将に人気があって鷹取城への訪問者があまりにも多いので、それが睨まれた発端だという。どんな人気ぶりだったのか。

 それから60年後、二人目の紀伊守が登場する。落城悲話の主人公・紀伊守経長である。
『朝倉村誌』から抜粋してみる。

 豊臣秀吉の四国征伐は、小早川隆景を総大将に、あっという間に東伊予の諸城を攻略したが、経長の鷹取山城だけは頑なに、抵抗しつづけた。天険の山城には人海戦略は通用しない。
 攻めあぐんだ隆景が城主正岡紀伊守経長に和議を申し込む。城兵は疲れ切っていた。蓄えていた兵糧も底を尽きかけている。それに小早川家と河野家は縁戚筋。主家のために独り奮戦している正岡氏の立場を、無にするわけがない。そう読んだ経長は小早川側の和議申し出に応じた。早速、慰問の大きな貢ぎ物が担ぎ込まれた。葛籠を開く、と中から蜂の群れが飛び出して、城兵に襲いかかってきた。
 再び、小早川側から貢ぎ物が届けられる。もうその手に乗るものかと、経長は「もはや、貢ぎ物など不要、和議破談なり。その葛籠を焼き捨てよ」と下知した。ところが今度の中身は火薬だった。大音響とともに、城兵もやぐらも、粉々に吹き飛んだのである。
 難攻不落を誇った鷹取城の落城を『伊予史精義』がこう記す。傷ついた城主正岡紀伊守は、鷹取山城もこれまでと、妻と幼い子を呼び寄せて、重臣であり、一門である清水通俊に託し、自らは腹をかき切った。
 時に天正13年(1585)8月7日であった。 竹林寺太子堂脇に祭祀されている経長五輪塔
 ■鷹取城MEMO
 
鷹取山城〈朝倉村〉

 字古谷の鷹取山山頂にある城跡。山は今治市新谷の吉祥寺の南西約2`にあり、海抜約330m。削平や井戸の跡、石垣列を残すが、空濠は埋没している。「予陽河野家譜」によると大永3年には正岡紀伊守経貞が居城していたという。同年7月、経貞の動きに謀反の疑いを持った河野通直は、旗下の来島氏・重見氏らに討たせたが、後に罪を許されて帰城している。その後天正13年の小早川隆景らの四国征伐では、豊臣秀吉の名に恐れてほとんど開城する城砦のうち、城主紀伊守経長は最後まで河野氏の恩顧にこたえて戦い、吉祥寺の裏山で自刃したという。正岡紀伊守経長の墓は古谷の竹林寺にあるが、ともに自刃した夫人の墓は吉祥寺裏山に住職により鷹取殿として祀られ、安産の神として今も信仰を得ている。

念願の鷹取山城址攻略
 この悲劇の城主夫妻を供養する五輪塔が山麓の竹林寺文殊菩薩堂にあるときく。ともかく「鷹取城址」に早く足を運ばねばならない。
 さて、史跡めぐりBで触れたように、正規の登山道のない山城に分け入るのは、一つ間違うと遭難のそれがある。背丈をこえる笹藪。虫、蛇。時期を選び、そのための周到な準備も必要だった。

 2004年1月17日を、念願の鷹取山攻略の日と決めた。
ルートは地元正岡会の二人(上田茂雄、正岡孝一の両氏)が事前踏査を重ねた。 雪に閉ざされた「窓の峠」。手作りの案内板
までもうすぐだったと後で知る
 それによると、、朝倉村側の昔からの登山道はとても登れる状態ではないという。鷹取山の背後、つまり玉川町小鴨部から窓の峠越えで林道が古谷に抜けていて、かなりの地点までクルマで近づけるそうだ。朗報だった。

 心を昂ぶらせて、松山空港に降り立った。 ところが時ならぬ雪が四国地方を直撃した。クルマは途中の峠道で前進できなくなった。やっぱり、鷹取城は難攻不落だった。

 3月になって、正岡会の有志がやっと登頂を果たした。
保安林の看板にかけられた手製の登り口標示
林道・古谷小鴨部線のもっとも標高の高い地点に保安林の看板があり、それに手作りの案内板がかけてあった。楽に歩ける杣道が、山稜を横切るかたちで鷹取城址が陣取る峰と向かい合える地点へと導く。そこからはハラを決めて、谷底へいったん下り、次に斜面をまっすぐに登る。
 頂上にたどりつく手前で見事な石垣の出迎えを受ける。土止め代わりに、川石を積み上げたままで、落城以来、ほとんど人の手は入っていないらしい。420年前に積見上げたままの素朴な佇まい。感動しない方がおかしい。石質は硬く、割れ口は尖っていて、鋭い。「青石」と呼ばれる種類で、何かの折には、武器に使えるそうだ。
石碑のある頂上は平坦で、ここは、他の山城と違うのだ。 山稜を横切るアプローチ道をゆくと……
城主の居館があり、城兵用の館まであったことを物語っている。土を掘ると兵糧用の焼き米も出てくる、というから、本格的な調査をしてみたいものだ。
 石碑の正面に刻まれた「鷹取山城址」。裏側に回る。

 「城主 正岡紀伊守経長
 家老 清水右ヱ門通俊 
   天正十三年落城
   明治三十三年 部分林設定により清水一統之を借受け植林せり
   面積三町四反四畝
   昭和三十八年二月 清水一統之建」
いきなり真っ直ぐ谷底へ下るしかないのだ
 清水一統についてはすでに学習済みだが、山頂にまで石碑を建て、現代に至ってもなお、変わらない奉公ぶりが続いているのだ。 
 3月登頂組の報告から、この項に必要な部分だけを抜き書きした。木の間から眺望した燧灘(ひうちなだ)の広がりが印象的で、鷹取城がいかに戦略的に要衝であったか、理解できたそうだ。

 雪で鷹取城址攻略をはばまれても,平地なら支障がない。いったん来た道を引き返し、正規のルートで朝倉村古谷(こや)に はいる。
目の高さに鷹取城址が出現。しかし…
 のどかに広がる豊かな田園風景。水利用に設けた池が目立つ。中でも特大なのが問口池。鷹取の峰々から流れ落ちる谷水をせき止め、水源確保に成功してから、この谷間の村が豊かに開発されたという。
 古谷地区は鷹取を中心とする三つの山のふところに包まれていた。
 
お目あての五台山竹林寺(高野山真言宗)は、知恵の文殊さんとして広く信仰を集め、村落の背後の高台にあった。
一旦、下りた谷底から一直線に登る
 正岡氏の宗家、河野氏との縁も深く、正平19年(1364年)伊予守護の河野通朝が世田山城で讃岐の細川頼之に攻められて自刃したが、その子・通堯はこの竹林寺に隠れて危機を脱し、その後、幸門城に移った。河野家再興の端緒となる縁起のいい寺院である。
 ゆったりとした堂内を抜け、さらに展望台を経由して山手に進むと、こぶりな太子堂があり、その右脇で紀伊守経長の供養墓が宝篋印塔と並んでひっそりと佇んでいた。
頂上の切り開かれた居館址の石碑
 これも鷹取山城の石碑と同じように、古谷に帰農した清水一統の子孫が建立したものだという。説明板がメッセージする。

「正岡紀伊守経長
戦国時代、河野家の重臣で鷹取山城主。
天正13年(1585年)小早川隆景の奇襲を受け、落城自刃、妻子は鹿子谷で自害する」 

 もう一ヶ所、悲運の城主夫妻を祀っている場所があるので足を伸ばす。古くは清水村と呼ばれた新谷(にや)の吉祥寺にむかった。
 古谷の集落を下り、いくつかの溜め池をやり過ごすと、行政割で今治市に組み込まれた新谷地区に出る。と、正面の丘の取りつき「吉祥禅寺」の看板と、西向きの日当たりのよい斜面いっぱいに広がる墓地を認める。ここの墓標の大半が「正岡家」であることを付言しておきたい。 
裏に回ると清水一統の心遣いが刻まれている
 
落城悲話後日譚
  臨済宗妙心寺派か。
 つまりわれらが南明禅師の流れではないか。瑞雲山と号し、この裏山にある鷹取殿こそ、紀伊守経長夫妻の霊を祀ったもので、安産、子育てのお守りとして信仰を集めている。もうお分かりだろう。正岡会が一族の誓いとして受け継ぐ「ふたりの言魂」はここに安置されているのだ。
  吉祥寺に参拝した足で「経長夫人」に逢いに行くことにした。言い伝えに寄れば、鷹取城落城のあと、城主の妻と子は、大爆発で傷ついた体と、妊っているおなかをかばいながら鹿子谷の洞窟に隠れていたが、ついに落命してしまう。
瑞雲山吉祥寺 裏山に登ると「鷹取殿」
正岡紀伊守室の「鹿子谷祠」 ライトを当てると「正岡紀伊守室」の
文字が浮かび上がる クリックして拡大
新谷に帰農した遺臣の手で小祠が建てられ、鹿の子池築造の際に、谷間から池畔の山道の脇に改めて祀ったという
 特にお願いして祠の扉を開いていただく。

丁寧に磨き込まれた花崗岩の石塔。胴の部分になにやら文字が刻まれている。読めない。と、同行の孝一さんが一工夫した。携帯電話からのライトを当ててみたところ、おお、うっすらと浮かび上がってきた文字がある。「正岡紀伊守室」の6文字。静かに、想いをこめて撫でる。なにかが通って来る。それで充分だった。

 そろそろ、鷹取山城址とそれにまつわるゆかりの史跡を訪ねる小さな旅も終わり近づいたが、もう一つだけ足を運びたい場所が、この新谷にあった。正岡五郎左衛門・聖二一族の祭祀している、新谷正岡氏の墓標にお参りしよう、というのだ。
谷・正岡五郎左衛門家が代々お守りする霊域
新しい宿題「龍岡宮」が悩ましい
 いまの新谷地区には正岡家が7軒あり、その一族の元祖であるお墓を、五郎左衛門家が「御頭(おとう)」という呼称で同族の祭祀組織を宰領してきたと聞く。 

 代々「五郎左衛門」の名を継ぐのなら跡取りの聖二氏が改名するのか。「いえ、いえ」と小さく笑うだけの聖二氏によれば、初代五郎左衛門の没年は亨保3年(1718)。
幽玄な形の正岡塚(クリックで拡大) 聖二さんは「五郎左衛門」を襲名しないのだろうか
 ということは、1650年頃の生まれと推定しても、そんなに狂いはないはずで、さらにいえば紀伊守経長の2世代後くらいの計算はしていいだろう。聖二氏は12代目に当たるという。ともかく、代々が祀り続けているお墓へ、案内を乞うた。

 新谷の聖二氏の屋敷を出ると、吉祥寺のある丘陵の裏側へ導かれた。森の中の聖域がそこにあった。注連縄を張りめぐらせて結界をとった形跡がある。結界の中央に石積みをして盛り上げ、そこに宝篋印塔の先端部を普通の石碑の上に継ぎ合わせたような墓石を祀ってある。「塚」であったのか。正面に刻まれた文字が判読できた。 

「龍岡宮之霊 正岡家之塚 奉勧請」

 そして左面には〇の中に三を入れた家紋が彫り込まれており、幸門城系というより正岡氏遠祖の中通城系との関わりを示唆する「奥津城」ではないだろうか。「龍岡宮」という三文字のキーワード。旅の終わりに新しい宿題を頂戴してしまった。
2005年2月20日。念願の「鷹取山城」に登城
●「あとがき」にかえて
「正岡氏ゆかりの史跡をゆく」は、いったん、ここで区切りをつける予定でいた。ところが、新谷の正岡氏をお訪ねして「龍岡宮」という名前に初めて触れてしまった。直感的に中通の「しろぬしさん」と結びつけたが、何一つ具体的な史料なり、言い伝えがあるわけではない。さて、どうやって解明しようか。

 幸い、「正岡会」が発足するに当たって、その準備世話人の一人に加えていただいたおかげで、同じ志を持つ同姓の人々に、めぐり逢えた。共通するなにかが、いつも通い合っている。本書を編集するに当たっても、いくつかの確認・取材が必要となったが、その新しい同志たちのお陰で、東京にいながらにして用が足せるようにもなった。
玉川町竜岡下の宮ノ台宝筺印塔群に取り組む
 たとえば、『玉川町誌』に「妙堂石や千人塚は幸門城主正岡丹後守とその一族の墓標である」と記述してあるので、玉川町役場や教育委員会に問い合わせても、だれひとりとして答えられない。それを嘆いたところ、母方が玉川町葛谷出身の孝一氏がすぐに調べてくれた。
 
「いまの道から200bほど山側に、竜岡から菊間へ通じる古街道が葛谷を通る。宝泉寺裏の竹林に《千人塚》があり、妙堂石も同じ場所にあったのが、そのあたりが山を削って盛り土をした程度だったので、土砂と一緒に《妙堂石》は流され、北条との分かれ道下の畑に置かれている宝篋印塔がそれ」と。
 
 竜岡に入るたびに気になっていたが、あれが妙堂石だったのか。これからも、機会をつくって、ゆかりの地を徹底的に歩いていきたい、と心を励ましている。                
 
 訃報を一つ。五郎左衛門さんが、7月の「正岡祭り」の開催をたいへん楽しみにされていたのに、待ちきれないで、旅立たれた。合掌。                        (正岡貞雄)

   Next