ベストカーガイド創刊前夜 本文へジャンプ
創刊前夜
『ベストカーガイド」は
こうして誕生した


昨今の自動車雑誌はかつての勢いを失い、地盤低下が著しい。その中にあって「ベストカー」は業界首位の座を、熱い読者の支持とスタッフのたゆまない努力によって、守り続けている。創刊責任者として、感謝の意をこめて、30年前の誕生前後の「原像」を記すこととした。
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BCの歴史がぎっしりつまった「想いで玉手箱」は迫力の800ページ 
滅茶苦茶面白い!ぜひご一読あれ! 
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活字がいっぱいのA5判雑誌で、もう一度、若い世代と対話してみたい夢
 昭和52年(1977)というから、もう30年も昔に遡る。
 そのころのぼくは講談社に籍があって、肩書きは社長室秘書だった。その前年に「月刊現代」の編集長を卒業して、これからの雑誌・出版の進むべき方向を探ってみてはどうか、という上からの計らいで、のんびりと一年間、その時代の深層海流の動きをウォッチングしていたが、実際のところ、躯も心もムズムズしてならない。定刻にデスクにつき、夕方、適当に消えていく暮らしは一年間もやれば充分で、さて、己れが本当に取組みたいのは何なのか、模索する毎日だった。
 出版の分野でいえば、コミック劇画が全盛だった。若者の活字ばなれは著しく、彼らを活字に惹きつける核はもうなくなったのだろうか。ぼくの命題はだんだん明確になっていた。
 本人にしてみれば、月刊総合雑誌の編集長を二年半ばかりで卒業はないだろう、自分のマスコミ人脈が生きてくるのはこれからだ、そんな自負もあった。と同時に、活字がいっぱいの分厚いA5判雑誌で、もう一度、若い世代と対話してみたい夢を捨てきれないでいた。活字ででも、媒介するものさえ確かなら、きっと成立するはずだ、と。
 そんな日々のなかで、女性週刊誌時代から、なぜか深いところでお互いが響きあい、気にしあっている作家の五木寛之氏の一言が、新しいターゲットをもたらせた。

「あなたもクルマ好きだから(そう、そのころ愛車はケンメリスカG)、このごろの喫茶店で、若者の話題がなにに集まっているか知っているでしょ。新しいクルマの品定めですよ。かれらは自らを自由に解放してくれるアイテムとして、気になってしょうがないんですよ。その辺の大衆心理を、かつて見事に読み抜いたのがヒトラーでしたね。フェルディナンド・ポルシエ博士にだれでも乗れる大衆車を開発させた。例のかぶと虫、フォルクスワーゲンです。そして国民車構想をぶちあげた。毎月、5マルクのグリーンチップを買え。それが100マルクになったら、そのクルマを渡す。ヒトラーの人気は爆発的なものになりましたが、実際にはその国民から吸い上げた金はナチスの活動資金にしかならなかったのですが……」


講談社のジョイントベンチャーで
クルマをメディアにして大衆のこころを掴む。「カーマガジン」か。いけるじゃないですか。早速、当時のクルマ雑誌事情を調べた上で、編集担当と営業担当の両専務に相談すると、そろって「それはいいね。研究してみなさい」と、反応してくれた。伏線はあった。講談社では別会社をつくり、新しい鉱脈に向かって二つのプロジェクト・チームに挑戦させていた。健康雑誌の「壮快」と夕刊紙の「日刊ゲンダイ」である。

 ほどなく、編集担当専務に呼ばれて、名刺を渡された。
「この人たちが、新しいクルマ雑誌を構想しているなら、相談に乗りたい、といっている。直ぐに連絡をとりたまえ」
 環八通りを中心とした首都圏の中古車専業ディーラーで結成している「A=1グループ」の主力メンバーの社長たちだった。「JAXカーセールス」
「西武モータース販売」「原自動車」……当時、売り出し中の若き起業家として、ぼくも、その存在だけは知っていた面々である。講談社が単独で創刊するのではなく、今度はジョイントベンチャーを、上層部は考えているのか。面白いじゃないか。

 彼らが常用しているホテルニューオータニの「ゴールデンスパ」を指定され、単身、赴くことになった。会ってみて、驚いた。3人とも、まだピカピカの30歳台。こちらだって、41歳になったばかりだが。
「グループ40社で毎号1000万円の広告出稿を約束しよう。読者から信頼されるクルマ専門誌を創って欲しい。

 彼らの言葉は熱かった。この目の輝きはどこから来るのか。もっと話を煮詰めるには、彼らとつき合って見よう。
自動車誌設立のため、講談社に準備室が作られた。中心となって動いたのが編集局長として活躍した筆者(左)と初代編集長の高橋克章(右)「ヤングレディ」時代からのコンビ。

社員旅行のヒトこま。右端は創刊時の経理部長、須賀勝三。奥には徳さんのメルセデスベンツSECが見える。因みに、このX19のオーナーはこの年の新入社員、勝股優であった。

ベースは「ヤングレディ」にあり!
 雑誌のイメージはすぐに固まった。「ベストカー」とは何か。それを徹底的に煮詰めてガイドしようじゃないか。「ベストカーガイド」。誌名はそれにしよう。彼らは「A=1グループ」から「ベストカーグループ」に名称を改める力の入れようだった。
 講談社もGOサインを出した。さっそく、スタッフつくりに取りかかる。開発室が設置され、当時の雑誌営業局長・高橋五郎氏を室長に迎えた。経理担当に須賀勝三さん。編集畑からは女性週刊誌「ヤングレディ」の編集次長で、実質的には現場を仕切っていた高橋克章君を正式にスカウトする。
「正式に」というのには、裏があった。ぼくが「クルマ関係の新雑誌開発」に取り組んだという情報はすでに社内に流れていて、克章君が会いに来てくれた。
「一人で抱え込まない方がいい。本気なら、ぼくが手伝うよ」
 6歳年下の克章(仲間内ではカッショウと愛称していた)君とはきわめて縁が深かった。昭和40年の暮れから(1966)から47年の春まで、ぼくは「ヤングレディ」に配属され、その時の直属部下が彼で、芸能記事の独走スクープで鳴らしたコンビだった。石坂浩二と浅丘ルリ子の結婚、江利ちえみの離婚とそのあとの骨肉の争い。舟木一夫の自殺未遂事件。数え上げればきりがないが、一方で、これが雑誌ジャーナリズムといえるのか、と悩んでいた同志でもあった。

中央が三推社初代社長を務めた高橋五郎氏さんは、講談社の雑誌営業局長から迎えられた。

創刊年の社員旅行(クリックで拡大できます)

編集部員としての「徳大寺有恒」
 正式にGOサインが出ると、克章君は待っていましたとばかりに、3人のスタッフ候補を連れて来た。杉江博愛、赤注ェ実、新美久始の3君であった。
講談社から刊行している男性ファッション誌「チェックメイト」で活躍しているフリーランスたち。3人の中で「杉江博愛」という名前に記憶があった。講談社MOOK「世界の名車」で彼の書いたBMW635CSi現地試乗レポートに、これまでのクルマ記事にないオーラを感じたからだった。その時はまだ、彼が話題の渦中にあった「間違いだらけのクルマ選び」の著者、徳大寺有恒である、とは知らなかった。
 3人と専属契約を結ぶこととした。編集長は克章君にお願いするつもりだったから、こちらに異存はない。音羽通りの一本裏道沿いにある和風旅館の一室を借り切って、彼らの合宿生活が始まる。とにかく、テスト版=ゼロ号を創って見ようじゃないか、と。

 ただちに、ぼくらは出版社(資本金5000万円)を設立した。講談社と首都圏の中古車専業ディーラー団体が対等に出資し、銀行(住友と三菱)と損保会社(東京海上と大東京火災)も、両陣営のバランスをとる上からも、共同出資に加わった。
 社名は「三推社」を選んでもらった。三つの力が一つとなって推進する、という願いをこめて……。隠し味はフランス語だった。「サン・スイ」とは「心配がない=人気者」という意味である。
 社屋は、本社まで歩いて行ける距離、ということで江戸川橋の小さなビルの一室を、最初の拠点とした。となりが講談社の関係するタクシー会社の車庫で、近くビルに建て直すから、それまで我慢して頑張れ、という約束を信じて、新しい挑戦の日々が始まった。ちなみに現在の社屋のある「第2音羽ビル」がそれで、口約束はきちんと守られたわけである。
 
 ゼロ号を出す、と簡単にいったが、これは生半可な作業ではなかった。狙いはまず、克章編集長を中心とする編集部のトレーニングのためだが、実際は広告と販売対策にあった。ベストカーグループから毎号1000万円の広告を保証されているのはいいとして、実際の制作から集金までを、こちらでこなす方策を立てねばならないし、広告の効果がなければ、すぐに不協和音の大合唱となるだろう。一方で自動車メーカーをはじめとするナショナルスポンサーとの折衝もある。電通・博報堂をはじめとする広告代理店ともコンタクトしなければならない。さらに販売と宣伝は、当面、講談社にお任せするしかないのか。
 結局、ぼくが編集と広告を統括することとし、広告部員として、御供玲一、服部剛久、上柳みどりの3名が入社する。彼らと一緒に43社に及ぶベストカーグループの各センターを訪問し、首都圏を走り回った。

信州・泉郷での社員旅行。右が徳さん。

創刊時のスタッフ。中央が現在第二広告部長の服部剛久。その左が副部長の上柳みどり。

これも社員旅行のヒトこま。全員クルマで!
●村上龍を富士スピードウェイに連れ出し200km/オーバーの世界へ!
 一つ、一つの課題と闘いながら、その年の10月26日、「月刊ベストカーガイド創刊号」がクルマ選びとカーライフの情報誌として船出した。
 表紙はVWビートルに、ツナギ姿のモデルが給油するシチュエーション。この路線はいまも一部が踏襲されているようだ。ちなみに2号目が高見恭子とポルシェ911の組み合わせ。以下、真野響子と928、岩崎宏美とフェラーリと続く。
 創刊号の目玉を何にするか。新車スクープとか、人気車の徹底フルテストができる力なんて、まだ、あるはずもない。とにかく派手に見栄えのするものをドーンとやろうよ、というので企画されたのが、「有名人の愛車を安く譲るオークション」であった。それも実際に会場を用意した。12月4日に新宿西口住友ビル隣の広場(いまのセンチュリーハイアットのある一画)に、皆さん、いらっしゃい、と呼びかける仕掛けだった。目玉は当時の人気アイドル、アグネス・ラムのカルマン・ギアをハワイから持ち込む。石坂浩二が黄色のマセラッティ・メラクSSを駆って登場する。
 国産車だって用意しなければ、というので、立花隆のコルト1200S、松本零士のスカイライン2000GTが登場しているが、これも克章君とぼくのマスコミ人脈が生かされた例の一つに過ぎない。
 異例なことで業界の話題を呼んだのは、8月にデビューしたスカイラインJAPANの広告が表2見開き(これ業界語だが)で入っていたことだろう。
 一般的には自動車メーカーからの広告出稿は創刊3号をクリアしてから、というのが慣例だったが、同じ日産の中でもプリンス自販宣伝部は独特の空気があって、テスト版の時から積極的に協力してくれた。それでは、とこちらで用意したのが五木寛之さんとスカGの設計者・桜井真一郎氏との対談。題して『日本人とクルマ』。これは今になって読み返してみても、含蓄のある、奥深い読み物となっている。
 そしてタイトルのつけ方に、ヤングレディ育ちの克章君のDNAを、ぼくは読み取る。それぞれのコメントのいいところを並記する手口である。
『スカGは若者の魂をなぜゆする?』『あの車には艶歌の匂いがあるから…』

 克章編集長のヒットは芥川賞作家の村上龍さんを富士スピードウェイに連れ出し、津々見友彦さんのドライブするレーシングカーの助手席に押しこめたことだろう。タイトルはぼくがつけた。「村上龍、翔ぶ!」

 さらにもう一つのヒットは、編集記者・杉江博愛に「私が徳大寺有恒です」と、記者会見を開かせ、すっきりさせたことだろう。克章君には注文を出しておいたのだ。
「ミリオンセラーの評論家がいつまでもペンネームの正体を隠しておいては、『ベストカーガイド』の看板にはできないよ。堂々とオープンにしようよ」
 ベストカー30年の歴史に徳大寺有恒が巨大な足跡を刻んだ第一歩だから、あえて記した。
 
 創刊号の売れ行きはほどほどだった。賑やかな誌面の割には、クルマを凝視する姿勢が薄いからではないか、という反省から、第3号はポルシェの集中BIG特集とし、さらに第4号で「イタリア車の秘密」と畳みかけ、1号毎に成長していったのは確かだった。
 6号目、新聞で公募した新人の第1号が入社した。勝股優君である……。
 やがて講談社の関連会社のなかでも優良会社として注目を集め、三年目に、三推社は黒字決算ができるほどになり、刊行スタイルも月刊から、月二回にシフトチェンジできるほどに大きく成長していく……。
 10年後の1987年、ぼくは「ベストカー」(そのころはすでに改名)のVIDEOマガジン化を志し、三推社から卒業していったのである。

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