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やっぱり、《悪魔のリンク》はただものではなかった!
 ドイツのニュルブルクリンクといえば、世界でもっとも難しいサーキットとして知られている。1周、22.835q。鈴鹿の約3・7倍、富士の5・3倍にあたる。

 この気の遠くなるような長丁場には、176のカーブが牙をむいてドライバーとマシンを待ち構えているのだから、コースとの闘いは想像を絶するものがあるに違いない。だが待てよ。ヨーロッパF2選手権シリーズの新着情報によれば、第4戦でT・ブーツェンがニュルブルクリンクをパーフェクトに克服したというではないか。金曜日の練習走行で7分4秒48というF2での最高タイムをマークし、決勝では天候が雨だったため、タイムはあがらなかったが、ホンダ/BS勢として、ことしはじめての優勝を飾っている。調べてみると、このブーツェンの7分4秒48というタイムは、75年にC・レガツォーニがたたき出したF1による7分6秒4を破ってしまうたいへんなものだ。

 ブーツェンといえば、昨年の鈴鹿F2で、なんどか中嶋、星野、松本らに、赤ん坊のように、手もなくあしらわれたドライバー。いくら鈴鹿がスペシャリスト向きかは知らないが、鈴鹿をマスターできないドライバーが、ニュルブルクリンクを昨年につづいて、連続制覇できるくらいだ。「世界一きびしいコース」もあやしいもんだ――そんな単純な疑問を抱きつつ、はじめてのニュルブルクリンクと対面した。

明日はパトレーゼの首次第だね
 ぼくのヨーロッパ旅行は5月16日から6月1日までの17日間だった。イタリーのタイヤメーカー「ピレリー」が、日本市場進出10周年を記念して、日本総輸入代理元・阿部商会の仲介で日本のモータージャーナリストと相互の理解を深め合おうと企画したもので、スケジュールの内容が凄かった。

 スウェーデンの「サーブ社訪問」にはじまり、イタリー・ミラノの「ピレリー社」、西ドイツ(まだ統一前であった)・シュトットガルトの「ポルシェ社」の見学はもとより、首脳幹部との直撃インタビューまで用意されていた。そのうえ、ホッケンハイム・サーキットでスポーツ走行もできる。そこまでがピレリー社の用意したメインメニューで、阿部商会から出されたデザートメニューには、ショックアブソーバーの名門「ビルシュタイン社」見学と、ニュルブルクリンク1000キロ世界耐久選手権シリーズ観戦がある。心憎いばかりの演出。

「アウトバーン体験」は、おいおい触れるとして、ぼくの「欧州クルマ一流品の原籍地見聞録」は、その旅の終わりから書きおこしたい。
 5月29日は公式予選日。快晴。ぼくらをのせた貸し切りバスがリンクに着いたとき、バドックは大揺れに揺れていた。 F1の人気ドライバー、パトレーゼが、「シュバルベンシュバンツ」とよばれる丘の高速ブラインドコーナーで10メートルも空中にとんだという悪いニュース。

「じゃあ、明日の決勝には出てこないのか」
 いささか落胆しながら、ビルシュタイン社モータースポーツのボス、H・エムデ氏に問いただした。
「それもパトレーゼ次第ネ。マシンはメカニックが徹夜をしてでも間に合わすはずだ。パトレーゼが首をやられていなければ問題ない」
 エムデ氏にはリンクのできごとが即刻わかるらしい。なにしろ、予選通過の54台中、ビルシュタイン装着車は45台におよんだ。しかも耐久レースともなれば、サスペンションの設定が重要なポイントの一つ。各チームのドライバーやメカがレース用ショックを大事そうに抱えて、パドックの入り口中央にデンと据えられたビルシュタインの基地にとびこんでくるからだ。

91年9月に撮影したオールドコース
 エムデ氏にはリンクのできごとが即刻わかるらしい。なにしろ、予選通過の54台中、ビルシュタイン装着車は45台におよんだ。しかも耐久レースともなれば、サスペンションの設定が重要なポイントの一つ。各チームのドライバーやメカがレース用ショックを大事そうに抱えて、パドックの入り口中央にデンと据えられたビルシュタインの基地にとびこんでくるからだ。
 そのたびに、エムデ氏は有名と思われるドライバーを、ぼくらに紹介してくれる。 ともかく、ピットを出て、出走車を見ないと、レース気分は盛り上がらない。パドックから地下道をくぐり、右へ折れるアプローチをのぼりつめると、ぽっかり視界がひろがり、明るいサーキット風景が待っていた。
■シュトメレン運転のバスでスタート
 ピットは折から、グループCとグループ6、グループGTUで構成されるクラスの第1回目公式予選が終了した直後で、ごった返していた。2回目の走行は、午後2時半からだ。

 富士スピードウェイなら、さしづめ星野一義選手が使用するに違いない、管制塔に近い便利なピットを、ここでもビルシュタインが占領していた。その隣はピレリータイヤがフルサポートのランチア・チーム。どうも不思議でならない。ビルシュタインが、なぜこうもこのリンクのパドックといいピットといい、いわば“一等地”を与えられるのだろう。鈴鹿や富士でカヤバやトキコが、こんなふうに振舞っている姿は見たこともない。生き生きと各チームの間を飛び回っているのは、BS、ダンロップ、アドバンのタイヤメーカーの担当者であり、レーサーが息抜きに立ち寄るのは、アライやショーエイのヘルメットメーカーのテントである。

 やがて、その謎はとけた。午後の予選も終了して、コースが翌日の決勝をひかえて短い休息に入ったとき、例のエムデ氏がヨーロッパ貴族の後裔のような端麗な顔をほころばせながら、ぼくらのバスに至急乗車するように命じた。
「遥かなる極東の国から来てくれたジャーナリスト諸公に、私のできる最大のサービスをしたいと思う。このリンクは1920年代の初めに、ドイツ政府が国策としてアイフェルの山を切り開いた歴史的なサーキットであり、その難しさは走ったものにしか体感できない。明日のレースの観戦ポイントも、それ抜きでは気の抜けたビールみたいなもの。平日なら、1周5マルク(550円)の走行券でじっくりコースを味わっていただけるが、レース開催中はそれも不可能。そこで、諸公らのバスでコースを一周しよう!」

ここが「大逆転(カルーセル)の谷」の
異名をもつ名物コーナー

観光バスでコース1周の大サービス
 一同、大拍手。と、とことこバスにのりこんできたひとりの男。眼鏡の奥の柔和な目が印象的だった。どこかでお目にかかった顔。
「わが社の契約ドライバーのロルフ・シュトメレンだ。モンツァのWEC開幕戦をポルシェ935K3-81で2位になったのはご存じだろう。彼はリンク・オブ・マスターとよばれ、このコースの隅から隅までしっている男で、今からガイド役をつとめる」

 緊張したのは運転手のホルスト君。彼にとってシュトメレンは憧れの大スター。たとえ観光バスのドでかいやつとはいえ、緊張しない方がおかしい。ぼくはコースを実地検分できると聞いた途端、最前列へとんでいっていたから、その辺の様子がよくわかる。で、ゆったりとコース・イン。ところが入り口で鍵のかかったバリケードに阻まれた。 いたく権威を傷つけられたらしく、エムデ氏は白い顔を紅潮させ、バスから降りるなり、コース管理室の方へ駆けていく。

 シュトメレンがニヤリとしながら解説する。
「彼こそがボス・オブ・リンクである。彼の協力なしにリンクに挑めば、マシンはコースの外に飛び出すか、1周30秒はタイムロスするだろう」と。
やはりこのコースはただものではない!
 バスは正面スタンドとピツトに挟まれたストレートでいったん停止した。そこがスタート地点。コースは時計回りだ。この時、コース図を入手していない失敗に気づいて、ぼくは慌ててノートを開く。せめて、見取り図だけでもとってやろうというのだ。
 第一コーナーはスプーン状にクルリと回って、いま来たばかりのストレートの裏側を、ピットを挟むようにして折り返し、左の上りコーナーへ。そこでコースは二股に分かれる。右にカーブするのは、ショートカット用のエスケープロードで、まるで高速道路の流入口のようにループしていた。本コースいったん上りつめたコーナーが直角に折れると、富士の第一コーナーを裏返しにしたような下りの勾配。と、すぐにS字が五つも連続する。それも森の間を縫いながら、谷底に落ちていく感じだ。
 グループCマシンはブレーキングを多用しながら、3速で駆けおりる。 ここが観戦ポイントらしく高速ベントへに入り口だ
 このハッチェンバッハとよばれる難所をクリアすれば、橋をわたって急な上り坂。路面がうねっていて、バスが軽くジャンプするくらいだから、サスペンション・ストロークの短いレーシングカーなら、それはもう、たいへんな跳ね方をするにちがいない。

 さて、アデナウの森。ここで4速から全開へ。ゆるい下り。300km./hに達するという。右手にニュルブルクの古城が見えるあたりから、コースはさらに右に左にカーブし、エクス・ミューテと名づけられた左側が崖、右に土手のある高速下りストレートにさしかかる。
長いストレート 右に古城が見える

「76年のドイツGPで、ニキ・ラウダがここで大惨事をひきおこし、以来F1はこのコースを使用しなくなった」
 シュトメレンは、左側のガードレールを指さし、ラウダのマシンかせ右側にふっとんだ地点を教えてくれる。
「ともかく、これほどめまぐるしく変化するコースだから、サスとシャシはよほどハードでなければ耐えられない」

「大逆転(カルーセル)の谷」の異名をもつ名物コーナー
 名物のカルーセルの谷底コーナーも抜けた。コースの左半分がバンクになっている。

 コースが大きく開けたところが、どうやら観戦ポイントらしく、林の間にキャンピングカーが点在していたり、若者たちがコース上にとび出してローラースケートをやっていたり、あるいはヒッチハイク気取りで、右手親指を突き出して、ぼくらのバスを止めようとする愛嬌者もいた。

 パトレーゼがその朝クラッシュしたあたりは高速のブラインドコーナーで、そこからの下りはS字になっており、クリッピングポイントを狙うだけで、目がまわりそうだ。そして、最後のストレートの長いこと。1・5キロもある。それが適当なうねりを隠しもっているから、先行するマシンはポカッと視界から消えてしまうそうだ。 この時はバスで1周しただけの印象記に過ぎないが、2年後に、雨と霧の中を、実際に自分で周回する機会に恵まれる。まさに<悪魔のリンク>であった。その実況レポートはこちら。

 最後の長いストレートに入ると右手のニュルの古城が見えてくる

 5月30日、午前11時、耐久レースがはじまった。フォーメーション走行はエスケープルートを使ってすぐに正面スタンドに戻ってきた。再び南コーナーへ。どの時点でレースがはじまったのやら判断しかねるほどのあっけないスタートだった。 全車が谷底にむかって、下りS字から消えると、サーキットは長い静寂に包まれる。

 7分30秒がすぎて――ラップを知らせる電光掲示板の上部にあるコース略図に豆電球が一つにつながった瞬間、轟音とともにトップ集団が生還してきた。ポールポジションを奪ったフォードC100にG6ランチア2台がぴったりくっつく。
 午後1時、コーナー観戦のため、バスで移動。最後の長いストレートに突入する直前の難関に狙いをつけたのだ。腕力だけでランチアを抑えこんでいたC100が、ぼくらの前をたよりないエキゾースト音で通過したとき、レースは決まった。パトレーゼがファビに替わってハンドルを握った。上半身を裸にして日向ぼっこの観衆は大拍手。その人気者が高速コーナーをホッピングしながら駆けおりてきた。たちまち先行するアスコナのIN側につき、強引にパスしようとする。右前輪が縁石からはみ出る。土煙!
「やった!」
 そんな意味のドイツ語で観衆は総立ち。強烈なブレーキ音。大カウンターで耐え抜くランチアとアスコナ。踏んばりきった2車はそのまま、丘のむこうへ消えていく。

 午後4時54分、パトレーゼはシルバーストーン、モナコにつづいて勝利のチェッカーをうけた。2位はすっかりぼくらとお馴染になったシュトメレンのロンドー。日本車ではただ1台決勝に進出したRX―7が大健闘、総合6位、クラス優勝。この耐久戦、やがて10月の富士で再現される。        (この項終わり)

ps その秋、ロルフ・シュトメレンの哀しい訃報が届く。アメリカのツーリングカー戦で激突死したという。