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| 余滴 アリマツの花見傘 |
このごろの天気予報はよく当たる。39チャンネルの「練馬のお天気」で、3月27日は、朝から雨もよいだ、とは知っていた。目覚めてみると、前日の好天が嘘のように、暗い雨の朝と入れ替わっていた。
「これじゃあ、桜の花もあわてて、首をひっこめるぞ」
そんな他愛ない会話を妻と交わしながら、出勤の準備を急いだ。
「はい、傘」
差し出された紺いろの傘をみて、ふっと心が動く。
「いや、今日はこっちのにしよう」
傘立てに、もう一本、地色が淡いベージュの、ちょっと使いこんだのが、こちらを選んでくれと訴えていたからだ。木造りのグリップが脂光りしていて、前の持ち主の愛着がしのばれた。
「あら、有松さん、ね」
「うん、今日は有松にお供をさせよう」
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有松正豊 。ひと月半前に、旅立つ飛行機のなかで変調し、異国で逝ってしまった。
きみ逝くと 電話の奥で 妻のふるえ声
信じてなるかと こころ踏んばれど
ふき出る涙 とめどなし
きみよ いま一度 逢いたし
いま一度 きみが笑顔に 染まりたし
きみが笑顔は われらが宝物なりしを |
有松の死を確認した日、詩のようなものを記ためてしまった。そうでもしなければ、心が鎮められなかった。もちろん、彼との別れの式に列席させていただいた。その折り、斎場に赴く前に上上津役のお宅に伺った。妻も同行した。妻は大分・佐伯の出身で、つい先頃、有松のご長男が娶った新妻も同じ地域から、という嬉しい縁もあって、有松のお宅にだけは喜んで泊めいていただくこともたびたびだった。
「これからは、八幡に来たときはまた侘しいホテルへ行くのね」
なにも、北九州プリンスや小倉リーガロイヤルが侘しいつくりだといっているのではない。楽しく、ゆったりとおしゃべりのできる有松家での団欒の時間を奪われたことへの恨みからであったらしい。それほどに、有松というわが友は、だれにもほっとする寛ぎを分け与える才能の持ち主であった。
有松家を辞して斎場へ向かおうと外へ出た。雨足が強まっていた。
「どうぞ、これを使って。有松が使っていたものよ」
差し出された傘にこめられた夫人の想いが、切なかった。
「うん、遠慮なく。東京まで持って帰りますね」 あの日以来、その傘はわが家で眠っていた。駐車場までの短い道程だったが、傘を拡げた。降りかかる雨の音。ベージュの布地にグリーンのストライプが3本ずつ粗い束になって、縦横に交差している。そしてもう1本、薔薇色の線が走っていた。どこかで出逢ったことのある織物の世界! 雨に塗れた地色が鈍い光りに透かされて、沖縄特産の芭蕉布を連想させたのだった。
グリップの感触が妙に温かい。クルリと湾曲しているあたりが偏平になっていて、なにやら文字が彫りこまれているのに、気づいた。男性用香水で有名なブランド名の「ARAMIS」と読んだのは、確認のために改めて読み直してからだった。
初めは「ARIMATSU」かと、目を疑ってしまった。だれが選んだのか、洒落た趣味じゃないか。 雨の中を一歩、踏み出した。わが左手は、いまは亡き友の指と連帯しているみたいだった。なんという心地よさ。アラミスの傘、か。ふと気づいた。アラミスのスペルにTUを加え、ちょいと順列を崩してやれば、「ARIMATSU」となってくれるじゃないか。TUって、フランス語で親しい意味をこめた「きみ」だったな。
「おい、有松よ。そうだろ?」
にわかに、風が騒いだ。樹々がざわつき、傘が揺れた。
「おっ! 有松が返事してる!」 |
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いまは亡き有松夫妻 |
形見傘のグリップを、もう一度、握り直した。桜が満開する日まであと一週間か。花吹雪の下を、この傘をさして歩いてみよう。そう、こころに決めた。
「アリマツの花傘。どうだ、有松、気に入ったか?」
妻を誘って、向島の桜堤か、千鳥ケ淵にいってみるか。(この項おわり)
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