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| 第1章 小倉駅北口 |
「まほろば」という言葉のひびきには、なにやら哀しみの色が、真っ先にくる。「滅び」と語感が似通うからだろうか。日本の歴史創世期に登場するヒーローのひとり、日本(やまと)武尊(たけるのみこと)が鈴鹿あたりで病いに臥(ふ)せ、やがて息を引き取るときに謳った、とつたえられる「望郷の歌」に出典があり、「すぐれてよいところ」の古語である。
倭(やまと)は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠(こも)れる
倭(やまと)し美(うる)はし
くちずさんでみると、やっぱり胸にツンとくる。だれのこころにも、這ってでも還えりたい故郷があって、武尊の無念の想い、ひと恋うる想いが、感傷の翼を後世のひとに与えてくれるのだろう。だから、いい歌なのだ。北原白秋をはじめ、浪漫派の文学者たちがきそって、この「まほろば」を多用したのに、いまのぼくは、とても共感している。
以上が、この短文のタイトルになぜ「まほろば」を遣つたかの前置きである。
■第1章 小倉駅北口
1996年3月。小倉付属中学3期生の同窓旅行会は、小倉駅北口からはじまった。その前夜、小倉駅に隣接するリーガロイヤルに泊まったぼくは、集合時間の午後1時までをひどく落ち着かない気分で揉みしだかれていた。あとでわかったことだが、参加者のほとんどが同じ状態にあったそうだ。45年という歳月の重みである。逢った相手がだれだか分かるだろうか。「あんた、誰?」といわれてしまうのではないか。さらに、おのれの歳のとりかたはだれよりも知っていながら、昔の仲間にだけは、無残な歳のとりかたはしてほしくない、という変な注文。正直いって、不安のほうが大きかった。
雨もよい。春の彼岸が過ぎたというのに北口駅前の広場あたりは肌寒かった。頬を掠める風に海の匂いが混じっている。振りむけば足立山は雲の中。肩に掛けたランセルのバッグが重く食い込む。
指定の時間までにはまだ30分はあった。これだったらタクシーをとばして富野あたりをぶらつくんだった。そう悔やみながら、ひとの往来の激しい改札口までやってきた。さて、北口のどこに集まるんだっけ。案内の葉書はしっかり東京を出るときにセカンド・バッグに入れたつもりなのに、朝になったら、消えていた。このごろ、こうした出来事が多すぎる。
コーヒーでも喫(の)むか。でも、紛れちゃいけない。で、構内のベンチで読みかけの本を展げる。出口あたりに3、4人の中年男女が人待ち顔で屯ろしている。もしかして。が、見憶えがない。違うな。
落ち着かない10分がたって、表に出ることにした。と、先刻から気になっていた集団のひとりの声が届いた。
「正岡さんは、リーガロイヤルに……」
目を凝らす。ほっそりと、草花が背筋を伸ばして佇んでいるような存在感に、憶えがある。毛利(坂田)妙子だ。(以下、敬称略)
「正岡です」
名乗りながら、その集団へ近づく。
「おぅ、やっぱりマッサンか!」
多分、いや間違いなく、それが45年ぶりの「西のまほろば」にたどり着いた、優しい瞬間だった。
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■それぞれの終楽章
中学校を出てからのそれぞれの軌跡が、還暦を契機に、ある一点で交わる。
その図式が、ある記憶を蘇らせた。わが長女も、ぼくらと同じように、教育系国立大学の付属中学に籍を置いていた。請われて、PTA会長だったぼくは卒業式の祝詞として、こんなことを話している。8年前の出来事だった。
やっとのことで、直木賞を手に入れた阿部牧郎(秋田出身)という作家をご存じだろうか。初期の作品は、やわらかい感覚で青春を凝視する瑞々しいものでしたが、やがて性愛を主題にしたきわもの作家に堕ちていった。それが病いを得て、入院生活を送るうち、こころを磨く。そして生まれたのが「それぞれの終楽章」という作品だった。秋田で同じ中学時代を送った仲間が故郷に吸い寄せられてからの、さまざまの関わり、交流を描きながら、主題である10代の精神形成がどれだけ、その人の一生に関わっているか、を浮き上がらせた珠玉のような出来上がりで再生、何度も候補にのぼりながら、手中にできなかった文学賞を受けている。
これからの人生で、いろんなことに揉まれるだろう。うまくいけば、自慢話を素直に聴いてほしい相手が欲しくなる。困ったときには、助けて欲しいと喚きたくなる。そんなときに素直に手を貸してくれるのが、いま隣にいる、あるいは前後にいる中学時代の友人たちだった、と気づくだろう、と。
PTA会長からの贈る言葉が、どれだけ彼らに理解されたかはわからない。わからなくてもいい。それは、そのことに気づきはじめた己れへのメッセージであり、その直後に、中学時代からの大事な友人のひとりが慌ただしく逝ってしまうのを、予感した挨拶でもあったらしい。
大事な友人については、後で触れるとして、話を「小倉駅北口」に戻そう。
すでに先着したひとたちは、向かいのビルでお茶を喫んでいるという。
「臺です。一緒に行きますか」
結構、身丈のある眼鏡の紳士が、帽子をとって挨拶してくれる。頭頂部の鈍い光。歳相応とは、このことか。いつももの静かに賑やかな悪たれ集団の脇で、笑顔を絶やさなかった少年が45年を経て、そこにいる。もっと小柄だったんじゃないかな?
「臺博美、きみかァ」
広場を浮き浮きしながら横切った。これからの「懐かしさ」の洪水に溺れちゃいけないよ、と言い聞かせながら……。
いた、いた。ティールームの奥の一隅。奥川実の腹は少し出過ぎているぞ。でも、あの破顔したときの清々しい白い歯が喪われていない。嬉しいぞ。うん、淵村(僚子)と牧村(玲子)を確実に見分けるには、しばらく時間を貸してもらわなくっちゃ。
バスの出発する時間が近づいた。ぞろぞろとわれらの集団が移動する。やっと届けられた熱いコーヒーを啜ってから、臺とぼくは後を追う。
その西鉄バスは明石博義の手配による。つまり、特別サービス料金ということか。サラリーマンとして、頂点近くまでのぼりつめた、そのひとりが明石である。前年の5月、ぼくは明石と逢っている。自動車メーカーが冠スポンサーとなっているプロゴルフトーナメントの招待プロアマ競技が、阿蘇ブリンスホテルゴルフ場で開かれ、その出場者名簿の中に、記憶のある名前を発見した。
「あいつだ!」
明石が西鉄に籍を置いているのは知っていた。 |
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| あれはもう25年も昔の話だ。 |
阿蘇のゴルフ場で会った時の明石博義・西鉄社長 |
1ヵ月間の海外出張をすることになった(『わがパリ、遥かなり』所載)。 当時としてはどんなに短期だろうと、1$360円の時代で海の向こうへ飛べるなんて、夢のような話だった。旅行代理店の存在も定かではない。会社からは行き先も自由なら、扱い業者に特定はないという。で、観光業務に手を拡げ始めた西鉄=明石に声をかけた。100万円を超える仕事だった。事務所が銀座1丁目の、首都高速の真下にあった。いまもそれだけは変わらない、と明石は笑う。見事なくらいに真っ白な頭髪。今ではバス運輸関係の総元締めの専務(その後すぐに社長に昇格)。それとあってプロアマ競技に招かれたわけだ。競技が終わって表彰式のパーティの席で再会した。お互い、頑張ってきたね。それが、言葉にしない共通の挨拶だったが、還暦の旅でまた逢えるとは、予測もしていなかった。
バスに乗り込むと、すぐに明石と目が合った。
「この前は慌ただしかったけど、今夜はゆっくり……」
話せるね、と言いかけると、
「うん。だけど明日の朝は、会社で団交があるので、一番で失礼する」
すまなさそうに声を細くする明石。そこへドヤドヤと後続の一団が乗り込んできた。記憶を、お互いがまさぐり合いながら、いまの風貌から、45年前の情報と重ねる。すぐに答えのでる奴と、どうにも焦点の合わせられない奴と……。まるで夏休み明け初日の教室で日焼け較べにはしゃぎ合った日々のような賑やかさと驚きの声が飛びかう。
バスの中程に陣取ったぼくの後ろのシートに乗り込んできたのは藤村寿博だった。利島雄之助、高尾侑吾もやってきて、席が埋まりはじめた。野見山寛・植木万視夫妻もいる。
いよいよ出発か。と、1台のクルマがバスに横付けされ、ゆったりと銀地の洒落たコート姿の女性が、
「遅くなりました。わたしもお伴させてもらうことに……」
と、ステップに手をかけながら、世話役の坂田妙子と坂上こと益満富子に挨拶している。
一目で竹内譲子とわかった。先に逝ってしまった山家節夫が「白雪姫」と憧れていたひとだった。なんでも火災に見舞われて洋装店を失い、滅入っているのを見かねた家族が、元気を出していってらっしゃい、と、ここまで強引に連れ出してくれたという。やっぱり、みんながそれぞれに様々なものを背負って、この一点に吸い寄せられてきていた。
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